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1)シェイクスピアの人生に関する伝記的な情報の多くは、私書ではなく、公的な書類に基づいている。教会の資料では、1564年4月26日に英国のストラトフォード=アポン= エイヴォン市で赤ん坊のウィリアム・ シェイクスピアが洗礼を受けたとなっている。ここから論理的に将来の劇作家の誕生日は4月23日であるとされた。
2)ウィリアム・ シェイクスピアが亡くなったのは1616年4月23日、52年の生涯だった。これは、現在のシェイクスピアに関する経歴で唯一正確な情報だが、死亡原 因や晩年の状況は未だにわかっていない。この秘密を解明する唯一の方法はシェイクスピアの遺体を掘り起こし、鑑定にかけることだが、シェイクスピア自身は自分の遺骸を乱 すことを禁止し、そのことを墓標に記している。
3)生前のシェイクスピアの肖像画として有名な1枚が残されているのみ。彼のデスマスクに関しては、その信憑性が疑われている。
4)ウィリアム・シェイクスピアの家族は文盲で読み書きができなかったのに対し、当時のシェイクスピアの語彙は専門家らが数えたところでは2万5千語。これは平均的な英国人の6倍を超えている。これに加えてシェイクスピアは1700の新しい言葉を生みだし、英語を豊かにした。
5)シェイクスピアは7歳から13歳まで主にラテン語とギリシャ語を教える学校に通っていた。ところが手袋の製造・販売に従事していた父親が破産したため、シェイクスピアは学校を辞めざるをえなくなり、生活のために働きだした。
6)18歳の時にシェイクスピアは、そのときすでに彼の子どもを身ごもっていた地元の地主の娘であっ たアン・ハサウェイと結婚。当時の規則で既婚者であったシェイク スピは大学で学ぶ権利がなく、演劇組合に参加することもできなかったが、彼は門下生として劇団 に入団がかなった。
7)150年の間、有名な詩人シェイクスピアの『リア王』 のフィナーレは、あまりにも悲劇性が強すぎるとされ、オリジナルで演じられることはなかった。
8)シェイクスピアの演劇活動は、フランスやイタリヤを含め欧州の隅々まで広がったにも関わらず、 シェイクスピアが英国を1度でも離れた形跡はない。
9)シェイクスピアのサインには80パターンがあることで有名だ。 これらは、名前を略したものなど、あらゆるバージョンがある。作家シェイクスピアを懐疑視する人たちは、これをシェイクスピアの 名前を使った執筆者グループが存在する証明だとみている。
10)シェイクスピアの家系は17世紀に途絶えた。彼の唯一の孫娘には子どもがいなかった。