Окинава в 1972 году - Sputnik 日本, 1920
沖縄の本土復帰50年
2022年5月15日、沖縄県は日本の支配下に戻ってちょうど50年になる。沖縄は長い歴史の中で、国際政治の流れに伴い、何度も急激な変化を経験してきた。1945年4月から6月まで続いた沖縄戦では、日本軍9万5000人、米軍1万2510人が犠牲となった。その後、沖縄は米軍に占領された。第二次世界大戦の結果、沖縄は米国の支配下となり、1972年まで米政権下に置かれていた。沖縄は1972年に日本に返還されたが、その後も沖縄は東アジアにおける米軍の重要な拠点となっている。現在、日本の米軍施設の74%が沖縄に集中し、沖縄の5分の1を占めている。

ロシアにおける沖縄空手の第一人者が語る、沖縄修行を夢見た日々と日本への郷愁 本土復帰50周年に寄せて

© 写真 : Asuka Tokuyama空手家ワレリー・マイストロヴォイさん
空手家ワレリー・マイストロヴォイさん - Sputnik 日本, 1920, 15.05.2022
サイン
空手発祥の地・沖縄には、世界各国から空手関係者が訪れる。ロシア古武道・沖縄空手連盟会長ワレリー・マイストロヴォイさんも、沖縄に魅せられた一人だ。ロシアでは武道全般の人気が高いが、中でもワレリーさんの空手道場はモスクワ市内に56か所の支部をもつほどの規模だ。ワレリーさんにとって沖縄は第二のふるさと。15日の沖縄本土復帰50周年を機に、空手との出会い、通算50回以上にわたる沖縄訪問、現在の日露関係に至るまで、話を聞いた。

映画がきっかけで空手を始める

ワレリーさんは、子どもの頃は完全なインドア派で、チェスが得意だった。転機が訪れたのは15歳のとき。友人が武道映画をこっそり見せてくれたのだ。当時のソ連では、外国に出る機会のある限られた層の人々しか、外国映画にアクセスすることはできなかった。「今思えばそれは中国映画だったんですけど、なんてかっこいいんだろうと強烈な印象を受けて、自分がやるべきはこれだ、と思いました」
ワレリーさんは日本人か中国人に武道の指導を受けたいと思い、当時モスクワで空手を教えていた日本人、佐藤哲雄氏の存在を知る。佐藤氏の元には希望者が殺到しており、素人がいきなり教えてもらうことは難しかった。しかし運良く佐藤氏が直接指導している弟子の教え子となり、空手人生がスタートした。ワレリーさんは「そこで知った武道の伝統も、正座でさえも、全てが気に入りました。空手には心の力がある、これこそ精神修養だと感じたのです」と振り返る。
© 写真 : Valeriy Maistrovoy若き日のワレリー・マイストロヴォイさん。沖縄初訪問 
若き日のワレリー・マイストロヴォイさん。沖縄初訪問  - Sputnik 日本, 1920, 15.05.2022
若き日のワレリー・マイストロヴォイさん。沖縄初訪問 
めきめき上達したワレリーさんは、2年間の兵役に行った後、1989年に私立の空手クラブをオープンさせた。当時はまだソ連時代で、ソ連ではスポーツは国のものだったため、個人でクラブを開設するということ自体が新しい試みだった。
指導者としてのスタートを切ったは良いものの、自身の未熟さを感じる日々が続き、空手の聖地である沖縄で修行したいという思いを強くしていった。1995年、ワレリーさんはついに沖縄行きを決意。ソ連が崩壊してから間もなく、市場主義経済への移行で社会が混乱していた時代である。ワレリーさんはお金をかき集め、沖縄行きの費用を工面した。当時としては大変な大金で、その額で車はもちろん、マンションの一室が買えたほどだ。念願の沖縄での初修行はわずか2週間だったが、実りあるものだった。その後も、渡航費を貯めては、定期的に沖縄を訪れた。

空手女子、ロシアで急増中

今のロシアにはありとあらゆるスポーツができる環境が整っている。それでも人々がワレリーさんの空手道場を訪れるのは、空手本来の目的である護身術に魅力を感じる人が多いからだ。子ども・中高生クラスの責任者アレクセイ・ツヴェトコフさんによると、ここ5年ほどは、女の子の入会希望者が圧倒的に多いのだという。
「女の子は『型』などの空手に欠かせない言葉もちゃんと知っていて、男の子に比べ、目的意識を持って習いに来ます。親も、昔は女の子に武道なんて、という人もいましたが、今ではそういう意識もなくなり、自分で自分を守れたほうがよい、と現代的な考え方になっています。道場には女性のインストラクターもたくさんいます」
© 写真 : Asuka Tokuyamaワレリーさんの道場にある門下生の木札
ワレリーさんの道場にある門下生の木札 - Sputnik 日本, 1920, 15.05.2022
ワレリーさんの道場にある門下生の木札
モスクワ市内にはスポーツジムが数多くあるが、ワレリーさんは、スポーツジムが流行り始めた段階で、いち早くインストラクターを派遣してきた。いきなり空手道場に行くのは敷居が高い人も、ジムでの空手教室を通して空手の魅力に触れることができる。
また、体育大学で教鞭を取ったり、他の武道団体やモスクワ音楽院とコラボレーションし音楽と武道が融合したフェスティバルを開催するなど、様々な形で空手の普及や後進の育成に取り組んできた。

ロシア人初のウチナー民間大使

2016年に行われた、沖縄伝統空手道の指導者派遣事業では、ワレリーさんはモスクワの受け入れ責任者としてセミナーの運営にあたった。ロシア人を指導した著名な沖縄の空手家からは「技術面は荒くて強く、黒帯取得に10年を必要とすると聞き、大変厳しい審査制度が敷かれている」、「武道の盛んな国だけあって、空手に一生懸命取り組んでいる姿に改めて心を動かされ、感動した」といった声が聞かれた。
2018年4月、ロシアと沖縄をつなぐこれまでの功績が高く評価され、ロシア人として初めて「ウチナー民間大使」に就任した。若き日に憧れた沖縄の文化を民間大使としてロシアに広めることは、ワレリーさんの誇りだ。この年の夏、沖縄では第一回沖縄空手国際大会が開催されており、ワレリーさんは審判として招かれた。
沖縄のユニークな食文化にも詳しく、特にゴーヤが大好きで、ゴーヤチャンプルーも自分で作る。ワレリーさんは「ゴーヤがロシアで手に入らないのが辛いですね。まだ実現していませんが、ロシア初の沖縄料理レストランをオープンしたいという夢さえあります」と笑う。
© 写真 : Okinawa Prefectural Government沖縄の空手家、モスクワで指導
沖縄の空手家、モスクワで指導 - Sputnik 日本, 1920, 15.05.2022
沖縄の空手家、モスクワで指導

恋しい「普段の沖縄」の光景

ワレリーさんのオフィスには寄せ書きアルバムがある。ワレリーさんの道場を訪れた日本の空手家や武道家たちが、ワレリーさんに残してくれた激励の言葉だ。ワレリーさんは時折それを読み返しては、日本と沖縄に思いを馳せている。コロナ前、ワレリーさんは最低でも年に2回は沖縄を訪問していた。早くコロナが落ち着いてほしい、と思っているうちに、ウクライナ危機により日露関係はかつてないほど悪化。日本行きの見通しは全く立っていない。

「多くの日本の方はご存知ないようですが、ロシアでは、日本、特に日本人に対して、とても良い印象を持っています。豊かな文化がその大きな理由です。私は、ロシア人で日本人のことが嫌いという人を個人的に見たことがありません。日本食レストランが何軒あるか数えるだけでも、日本への関心が高いことがわかります。お箸で食べたり、日本について何かを新しく知ることが、ロシア人には面白いのです。そのことを、このインタビューを読んでくれた皆さんにぜひ知ってもらいたいです。

道場の門下生はコロナで一時期減ってしまいましたが、また少しずつ増えています。武道は私たち、ロシアと日本をつなぐ、共通の言葉。状況が落ち着いて日本がロシア人を入国させてくれるようになるまで、待ちたいと思います。次に沖縄に行けたら、先生方や古い友人知人と会って、稽古して、町を歩いて、地元のものを食べたいです。今、こんな状況ですから、日本の空気を吸って散歩するだけで、すごく幸せな、新鮮な気持ちになれると思います。私は北海道から沖縄まで日本のほとんどの場所に行きましたが、どの県にも独自の特徴があり、日本は本当に面白い。この国は発見の連続ですから、15歳の時に抱いていた日本への興味関心は、今でも尽きません」

© 写真 : Asuka Tokuyama寄せ書きアルバムを読み返すワレリーさん
寄せ書きアルバムを読み返すワレリーさん - Sputnik 日本, 1920, 15.05.2022
寄せ書きアルバムを読み返すワレリーさん
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