1990年代初頭、プーチン氏はレニングラード市(現在のサンクトペテルブルク市)の市議会でアナトリー・サプチャーク市長の片腕の第一副議長を務める。この故サプチャーク氏の長女が今回の選挙でプーチン氏のライバルとして出馬するクセーニャ・サプチャーク氏。プーチン氏はレニングラード大学時代、サプチャークの教え子で面識があった。
1995年春、プーチン氏はサンクトペテルブルク市長選に出馬するサプチャーク氏の選挙活動を率いる。選挙でサプチャーク氏が落選すると、プーチン氏はすべての役職を退いたが、8月にはすでにモスクワに招かれ、ロシア大統領府総務局次長となった。
モスクワでプーチン氏はうなぎのぼりに昇格した。1997年、大統領府副長官に任命され、翌1998年にはエリツィン大統領令によって連邦保安庁長官に任命された。政治の大舞台に登場したのは1999年。第1副首相をかわぎりに首相代行、首相を務めた。
1999年の大晦日、エリツィン初代大統領は突然辞任を宣言。その時の有名な声明が「ロシアは新たな政治家、新たな人物、賢く、強く、エネルギッシュな新たな人々と新たなミレニアムに突入せねばならない。」辞任にあたりエリツィン氏は、選挙までの期間、首相を務めていたプーチン氏に大統領代行として国を率いるよう指示した。
同年3月の選挙でプーチン氏は勝利し、2008年まで大統領職に就いた。その後、4年間、ドミトリー・メドヴェージェフ政権時代を経て、2012年に再び、大統領に返り咲いた。
プーチン氏は経済学修士でドイツ語を自由に操る。1973年、サンボのマスターとなり、1975年には柔道のマスターを取得。サンクトペテルブルク市のサンボ選手権では数度の優勝経験があるほか、アルペンスキー、アイスホッケーも得意とする。