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①『イワン雷帝と皇子イワン』 (1885年)
世界有数の作品数を誇るモスクワのトレチャコフ美術館創設者のパーヴェル・トレチャコフは、この絵を自らのコレクションのために購入し、同作品が公の目に晒されないよう求めていた。しかし篤志家であるトレチャコフの死後、戒めは破られた。この絵を見た人びとは涙を流したが、1人の男が狂気に陥り、刃物で絵を切った。美術館の警備係はこれを見て気が狂い、美術館から飛び出すや列車に身を投げた。
絵は修復されたが奇妙な出来事は続いた。レーピンの右腕が動かなくなったのだ。イワン雷帝を描く際モデルになった芸術家のグリゴリー・ミャソエードフはまもなく、怒りのあまり自らの子どもを手にかけそうになった。その子どももまた、イワンという名前だった。作家のフセーヴォロド・ガルシンはこの絵のためポーズを取った人物だが、後に気が狂い階段から落ちて亡くなった。ガルシンの頭部の損傷箇所は、絵画の皇子イワンと同じだったという。
② 『ムソルグスキーの肖像』(1881年)
これはレーピンが描いた肖像画の最高傑作だと見られている。病気で死にかけているものの、活力を失わずに依然として偉大な作曲家の姿が描かれている。ムソルグスキーは肖像画が完成した数日後に亡くなった。偶然だと考えることもできるが、レーピンのためにポーズを取った数日後に小説家ピーセムスキーや詩人フョードル・チュッチェフが死亡している。また、当時のピョートル・ストルイピンはレーピンが肖像画を完成する直前に射殺された。
③『ヴォルガの船引き』 (1873年)
世界的に有名なこの絵に描かれた人物には全て、実際のモデルが存在する。ロシア皇帝アレクサンドル3世の弟であるウラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公がこの絵を購入し、画家の画才に感嘆した。そして、船引人たちの運命を追っていった。屈強に描かれた男たちの大半は絵画完成後間もなく死亡している。
④『帝国枢密院設立100周年記念の儀礼』 (1903年)
「帝国枢密院の記念儀礼」を描いた記念碑的絵画は、皇帝政府からの依頼を受けて制作された。片手を痛めていたレーピンは計60名の議員を描くことができなかったため、絵の右と左はレーピンの下書きをもとに生徒らが完成させた。この絵もまた預言的な作品となった。1905年、ロシア第一革命が起きて枢密院議員の多くは地位と称号だけでなく、命も失った。しかもレーピンの生徒が描いた役人たちは、命をとりとめた。
⑤『女流作家ナタリア・ノルドマン=セベロバヤの肖像』(1911年)
ナタリア・ノルドマン=セベロバヤはレーピンの2人目の妻であり、熱狂的な菜食主義者。レーピンに無理やり干し草を食べさせようとしたこともあるという。レーピンがこの肖像画を描き上げるとナタリアは病気にかかり、転地療法としてスイスに移ったが、同地で亡くなった。ナタリアを亡くしたレーピンは菜食主義を止めた。彼の友人らは、菜食主義者でなくなったことが彼の寿命を伸ばしたと評していた。