「苦しみと悲しみに耐えてきた人生を返して」 優生保護法犠牲者の告白

今年4月から5月にかけて、旧優生保護法の下で強制的に不妊手術を受けさせられた人々が、相次いで4件の国家賠償請求訴訟を起こした。原告の一人、北三郎さん(活動名)が、自分に何が起きたのかを知ったのは手術の後だった。
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完全な健康体

北さんとのインタビューの日、30度にもなる暑さの中、北さんは徒歩で待ち合わせの駅まで来てくれた。北さんは75歳だが、とても60歳以上には見えないほど若々しく、建設現場の仕事に毎日通っているという。北さんの自宅まで向かう間、北さんは、仕事場では毎日誰かが熱中症になっていると話してくれた。ところが北さん本人は、暑さは全く問題ないという。北さんの健康状態はすこぶる良好だ。

旧優生保護法では、遺伝性疾患、遺伝性以外の精神病、精神薄弱者、ハンセン病患者などを、いわゆる「優生手術」の対象としていた。しかし実際は、全く健康に問題のない人に対しても手術が行なわれていた。北さんもそのうちの一人だ。

北三郎さん

北さん「私は仙台市で生まれました。私の母は私が生後5か月のときに亡くなりました。姉と弟がいますが、弟とは母親が違います。父親は魚屋をしていました。両親は朝早く出て行って夜遅く帰ってくるので、コミュニケーションはありませんでした。親と会うのはせいぜい日曜日で、それもたまに会う程度でした。『親』と言うには離れた存在でした。」

北さんの代理人、関哉直人弁護士によれば、北さんは家庭の事情により、非行少年のための教護院(現在で言うところの児童自立支援施設)に送られてしまった。障害をもたない北さんが、手術を受けさせられた明確な理由は誰からも説明されていない。

「もし何が起こっているか知っていれば、逃げたはずなのに」

1957年4月、当時14歳だった北さんは強制的に不妊手術をされ、生涯子どもを持てない身体にされてしまった。北さんは当時を回想する。

北さん「病院に連れて行かれて、看護師さんに手術台に乗せられ、背中に麻酔を打たれて意識が朦朧としていました。(身体の)下の方で何かしているなとは感じました。先生からは、何か悪いところがあるからと言われていました。つまり騙されたということです。手術のことは何も聞かされておらず、説明もありませんでした。もし分かっていれば、逃げていたのではないかと…。手術後15日~20日間ぐらいはトイレまで 這って歩いて用を済ませました。一週間ぐらいは立てませんでした。立つと痛みが来てしまって、とにかく歩けないような状態でした。今は何もありませんが、手術の後5年間ぐらいは痛かったです。何ともないと思っていると、冬になって激しい痛みが来たこともあります。不意に立ちすくんだこともしばしばありました。」

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自分が将来子どもを持てないということを北さんが知ったのは、手術後1か月が過ぎてからのことだった。施設の先輩に教えてもらったのだ。なぜそんな手術をしなければならなかったのかと、頭の中が真っ白になった。北さんは、手術を強制された仲間と一緒に、色々と話し合った。先生のところへ行って、問いただそうともしたが、先輩は、そんなことをしても何の意味もないと諭した。そして少年だった北さんは、手術を受けた事実を変えることはできないと理解した。

北さんはかつて、あるインタビューに答えた中で、手術を止めなかった父親を恨んではいないと話している。

北さん「手術1か月前に、自分の父親が育てのお袋と一緒に教護院に来ました。私を連れ戻しに来たのかなと考えていましたが、そうではなく、帰りがけに靴下とタオルを渡されて『元気でやれよ』と言われました。その後に手術をされたのです。」

「妻には、妻が亡くなる直前に、手術のことを話しました」

教護院を出た北さんは栃木県で土木関係の職につき、工事現場で働いた。北さんが結婚したきっかけは、 社長の奥さんが「ずっと一人でいるわけにもいかないでしょう」と、お見合いをすすめてきたからだ。当時、結婚の意思はなく、社長の奥さんと言い争いまでしたが、熱心な説得に北さんは折れるしかなかった。
お見合いをした後もやはり、結婚したいとは思えなかった。しかし妻は、もう一度会いましょうと返事をしてきた。結婚する・しないと言い争っているうちに、どんどん話は進み、結納が決まり、北さんは「仕方ない」という心境で結婚することになった。

結婚後、長い月日が経った。北さんは、手術のことを告白すれば、妻が去っていってしまうのではないかと不安に思っていた。結果として北さんの妻は、自分が母親になれなかった理由を、死の直前に知ることになった。耐えられない気持ちを抱えながらも、真実を言えずじまいだった北さんは、妻が重篤な状態に陥ったとき、手術について告白する決心をした。

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北さん「亡くなる寸前に私の秘密を明かしました。小さい頃に、子どもが生まれないような手術をされたと。その時、女房も黙って聞いてくれました。何か答えてくれるかと思いましたが、手術のことには何も触れず、『それよりも、食事はちゃんと取るんだよ』と言いながら、息を引き取りました。」

「国が謝ってほしい」

北さんが国を相手に訴訟を起こす気になったのは、今年1月、新聞で「優生手術」について知り、それこそが、北さんの身に起こったことだと理解したからだ。新聞には、勇気を出して名乗り出てほしいと書かれていた。

北さん「名乗りを上げる前に、私は姉に話しました。すると、『色々なことが起きると思うが、頑張りなさい。途中でやめるようなことはしないで』と。初めて姉さんに、頑張って!とはっきり言われました。」

北さんの姉は、北さんの手術のことを知っていたが、祖母に口止めをされていた。このことについて胸の中にしまっていた姉もまた、苦しみを抱えていた。北さんの手術について、家族内では一度も話題になったことはなかったが、北さんと姉は、今までの心の重荷について、初めて互いに分かち合うことができた。

今年の2月2日、北さんは勇気を出して電話相談をし、自分に起こった悲劇について打ち明けた。法律家たちはすぐ動いてくれ、北さんの手術に関する資料を探したが、見つからなかった。

今の北さんにとって大事なのは、賠償金を受け取ることではなく、国からの謝罪だ。

北さん「今までの、苦しみと悲しみを耐えてきた人生を返してください。それしか言いようがないですよね。国を訴えて裁判をやって、あれは間違った手術だったということを確認したい。謝ってほしい。苦しみと悲しみの私の人生を返してくださいと、それ以外に考えることはありません。」

関哉直人弁護士

公正さを求めて

関哉弁護士によれば、国は被害者救済の法律を作ろうと動いており、来年の通常国会で法律ができて救済をするという方向になる可能性がある。関哉弁護士は、もちろん裁判に勝つことが目的だが、裁判結果が出る前に法律ができ、国が北さんを含む被害者に謝罪をし、一定の賠償金を払うという合意ができるかもしれない、と話している。北さんは裁判以外でも集会での発表や取材対応などに精力的に奔走し、じゅうぶんに調査検証が行なわれ、謝罪と補償がなされるよう、活動を続けている。

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