歴史は見つめた ノートルダムは蘇る 大聖堂の7つの史実

謎めいた一致だが、ノートルダム大聖堂が大火災に見舞われた日は、カトリック教会暦の受難週間の初日、聖月曜日だった。全世界のカトリック教徒は、今年2019年は4月21日にその日があたる復活祭に向けて準備を行っている。このため、最重要歴史建築物である寺院の火災を極めて不吉な兆候ととらえる人は多い。それでも建物の構造自体は残った。ということは復興の希望は残されているということではないだろうか。スプートニクはノートルダム大聖堂の歴史を振り返り、比類ない、その存在意義を検証してみたいと思う。なぜならこの大聖堂はあまたの動乱の時代を潜り抜け、様々な事件の歴史の証人となってきたからだ。  
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1) ノートルダム大聖堂の建立開始は1163年。パリで初めて建てられたキリスト教寺院の聖イシュトヴァーン大聖堂があった場所に、パリ司教モーリス・ド・シュリーの指揮のもとで始められた工事は2世紀もの歳月をかけ、1345年にようやく出来上がっている。

2) ノートルダム大聖堂を舞台に行われた歴史上の重要な事件:

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3) 大聖堂は百年戦争(1337~1453年)、 ユグノー戦争(1562〜1598年)と長きにわたる戦禍を潜り抜けた。だが最も深刻な脅威となったのはフランス革命だった。革命家のマクシミリアン・ロベスピエールはノートルダム大聖堂を「蒙昧の城」であるとして土台もろとも打ち壊すべきだと豪語した。

ノートルダム大聖堂:炎に包まれたフランスの偉大な大聖堂
結局、大聖堂は、パリの信者らが「革命に必要な費用」を肩代わりするという形で破壊を免れた。

ノートルダム大聖堂は残ったが、君主制の象徴は多くが破壊された。歴代の王の石像は頭部を破壊され、鐘も溶かされ、大砲へと姿を変えた。

4) 19世紀初頭、ノートルダム大聖堂はまたもや危機を迎える。建物の老朽化があまりにも進んだため、みすぼらしい姿を撤去する案が出されたが、最終的には修復が行われることになった。そのために大きく貢献したのが作家ヴィクトル・ユーゴーとその筆による長編小説『ノートルダム・ド・パリ』だった。小説のおかげで仏国民はこの古い建築物を再び見出した。高さ95メートルの尖塔が加えられたのもまさにこの時代だった。

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5)ノートルダム大聖堂を象徴する有名なガーゴイルが取り付けられたのはさらにあとの19世紀後半。ガーゴイルは人間の罪、悪魔を体現するだけではなく、雨水から建物を守る雨どいの排出口という実際的な機能も発揮している。

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6) ノートルダム大聖堂は2度の世界大戦を潜り抜けたが、これによる損傷はほとんど受けていない。20世紀末に再び行われた改修工事のおかげで、大聖堂は建立当時の金細工の輝きを取り戻した。

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7) 2017年、大聖堂の完全な修復工事には15年の歳月と1億5千万ユーロの費用が要されることが明らかにされた。ところが仏政府が決めた拠出額は最初の5年に200万ユーロ、続く10年に400万ユーロ足らず。修復工事を請け負っていた「リョ・ブラ・フレール」社(Le Bras Frères)は屋根工事、歴史的建造物の修復に特化した企業。現時点では火災の原因は特定されていないものの、検察側は修復工事が発火の原因となった恐れがあるとみている。

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