天からのお告げか、それとも許しがたい職務怠慢か?ノートルダム大聖堂の火災をめぐる疑問の数々にスプートニクが回答

4月15日の夜に起こった世界的に有名な建造物、ノートルダム大聖堂の火災は、パリっ子だけではなく、世界中の人にとって衝撃の出来事だった。何百万という人々がこの悲劇の行方を生放送で見守り、大聖堂の尖塔が崩壊した瞬間を目撃した。フランス内外では、まだ火の手がおさまらないうちから、火事の原因や、ノートルダム大聖堂が今後どうなってしまうのかについて議論が交わされている。大聖堂の運命、そしてこの悲劇の原因について、本稿をお読みいただこう。
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消失したものと救出できたもの

ある目撃者は「これはテロじゃない、偶然に起きたことだ。それにしても、ああ、なんという不幸だろう!」と叫んだ。まず96メートルの高さの尖塔が崩壊し、その後屋根の一部と時計が続いた。約400人の消防士が消火活動にあたり、ファサード、骨組み、塔、そして聖堂の大部分のインテリアを救うことができた。芸術作品、祭壇、十字架、オルガン、そしてキリスト教徒にとって大事な聖遺物のひとつである「いばらの冠」も無事だった。

出火原因は何だったのか?

ネットメディア・バスフィードが伝えたところによると、最初の火災報知機は現地時間の18時20分に作動したが、消防車を呼ぶには至らなかった。18時43分に2回目の火災警報が鳴り、聖堂の上階で出火が確認され、消防に通報した。

ノートルダム大聖堂の火災現場で活動している科学研究捜査官らは「電気配線の問題」が原因だとの見解を示している。現地紙「ル・パリジャン」が伝えたところによると、捜査官らによれば、火元は尖塔の基礎部分であるという。火災は偶発的なものだったと見られており、検察が動いている。

​なぜ消火活動に時間がかかったのか?

発火した瞬間からほぼ火がおさまるまで10時間もかかった。パリ消防局でかつてプレス対応をしていたロラン・バイバー氏は「屋根の火を消すのは、建物下部とはわけがちがう」と話す。結局、屋根が完全に崩れ落ちてしまうほど、火の手の回りは速かった。崩壊した尖塔は、大聖堂の中では最も新しい部分で、19世紀半ばに付け足されたものだ。消防隊員らは、聖堂の構造を更に痛めつけ、人々にも損害を及ぼすおそれがあったため、空中消火は選択肢になかったと明らかにした。

天からのお触れ?

ノートルダム大聖堂の建設には、中世の基準で言えば、長い時間がかからなかった。1163年に建設開始され、1345年に完了したが、全て完成というわけではなかった。様々な修繕やリフォーム作業は18世紀まで続いた。伝説によれば、13世紀の職人ビスコルネは正面扉の装飾をまかされたが、満足いくものができず、スランプに苦しんでいた。そこで悪魔が助けてくれたが、美しい装飾と引き換えにビスコルネは(もちろん)自分の魂を売ってしまう。ともかく、建設にあたっては、そういった「悪魔めいたもの」の助けが必要だったわけだ。消防士たちは、消火にあたってこの言い伝えを思い出したに違いない。ノートルダム大聖堂の構造はもちろん、研究し尽くされていた。それなのに火を止めることができず、屋根はまるでマッチのように燃え上がったのである。

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天からのお告げ、と火災がカトリックの復活祭の一週間前に起こったことだ。しかし、カトリック教会のビショップ・コンファレンス参加者のオリビエ・デュマ氏は、この悲劇が天からのお告げだと信じてはいない。

リア・ノーヴォスチのインタビューに対し、デュマ氏は「我々はあそこ(大聖堂の屋根)で修繕作業が行なわれていたと知っている。火はそれに関連したものだ」と強調した。

修繕作業は昨年の夏から行なわれていた。カトリック教会は前々からフランス政府に対し、大聖堂の修復にかかる予算を割くよう頼んでいた。専門家の試算によれば、2017年度、修復にかかった費用は1億5千万ユーロだったという。修復費用捻出のために特別に基金も創設されていた。そしてどうも、問題はこう着状態を脱したはずだった。大聖堂の有名な尖塔は、ほぼ丸一年、修復のための足場に囲まれていたのである。

再建にはどれだけの時間がかかるのか?

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ロシア正教会・文化保全に関する総主教理事会の会員で、歴史的建造物や文化遺産の保全を担当するレオニード・カリニン長司祭は、リア・ノーヴォスチの取材に対し「外面を修復するだけでなく、内側の構造の要素を検査する必要がある。それは細かいところまで注意を要する作業になる。まずは鑑定をし、その後に修復する。フランスの仕事であるから、精密で念入りなものになるだろう。そういったことも含めて考えれば、再建には最低でも10年から12年はかかるのではないか」とコメントしている。

作家ヴィクトル・ユーゴーはかつて、フランスを始めとした世界に向けて、ノートルダム大聖堂を大至急修繕するように10年間も呼びかけていた。大聖堂を舞台にした彼の小説「ノートルダム・ド・パリ」は1831年に出版された。当時のパリジャンたちは、老朽化した大聖堂を解体するか否かで激論を交わしていたのである。現在、大聖堂はパリの最も重要な象徴の一つであるという点で、パリっ子たちの気持ちは一つだ。そしてフランス中が、できるだけ早く大聖堂を再建したいと望んでいる。資金をどうやって捻出するのか、そして火災の原因とその責任については、これから激論が交わされることになるだろう。

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