「(私は)核兵器の拡散の反対することを決意しました。なぜなら私は広島と長崎を経験した国の出身者だからです。」(2009年7月2日)
1) 天野氏が受けたのは正真正銘の国際教育
後にIAEA事務局長となる天野さんは戦後間もない1947年5月9日、神奈川県湯河原町で産声を上げた。東京大学法学部を卒業後、フランス留学で仏語を習得した。1972年、外務省に入省すると、ベルギー、フランス、ラオス、スイス、米国へ赴任した。英語、仏語に堪能だった。
2) 地球の安全のために実に多くを成し遂げた
核不拡散と核軍縮 天野之弥IAEA事務局長が逝去
© AFP 2023 / Samuel Kubani
4) 執念でチェルノブイリ3号機を閉鎖
天野氏は2000年から2001年のG7核の安全保障グループの議長を務めた時期に、チェルノブイリ原発第3号基を閉鎖するイニシアチブを推し進め、実現させた。3号基は1986年の事故以来、14年間稼働し続けていた。
(1、2号基は一連の事故や1991年と1996年に放射能漏れを起こしたことから、1996年後、学界の圧力で閉鎖に追い込まれていた。
5) 福島原発事故後も「世界の原発は増え続ける」
天野氏は2011年の福島第1原発をきわめて深刻な事故と発言した。事故直後、当時の首相で反原発の菅直人氏と会談した後で記者団の質問に、地球温暖化対策もあって世界の原発は「これからも増え続ける」と発言した。原発の安全性強化に尽力してきたIAEAは福島を視察し、事故の教訓をまとめて、安全対策に乗り出した。