地元のマスコミはガシンスカヤさんの存在を知るやいなや、一瞬のうちに彼女をスターに仕立て、こぞって独占インタビューをとり、「赤いビキニの女性」と銘打った、ソ連からの亡命者のセンセーショナルな記事を書き立てた。
取材に彼女は、自分は14歳の時からソ連からの逃亡を計画してきたと告白した。当時、一般市民が国外に出ることは極めて困難だった。
「私は14歳で共産主義とは何かを理解しはじめたのです。」ガシンスカヤさんは記者らにこう語ったが、これは明らかに好印象を与えようとしての発言だった。
「まわりは全部嘘とプロパガンダで塗り固められていることがわかったんです。そして次第にそれに対する憎しみを抱くようになりました。一体なぜ豪州を逃亡先に決めたかというと、雑誌で写真を見つけた時、ここは地球上で最も美しい場所だとわかったからです。」
ガシンスカヤさんは大変な苦労を乗り越え、ソ連のクルーズ船「レオニード・ソビノフ」にウェートレスとして乗り込んだ。このクルーズ船は夏は地中海を、冬は太平洋を航行していた。
クルーズ船がシドニー湾に錨を下した瞬間、ガシンスカヤさんは自分の部屋に一切の私物を置いたまま、窓から身を躍らせた。海中に落下した際に足首に傷を負ったが、その痛みをこらえて岸辺に向かって泳ぎだした。
豪州移民・市民権省はこの女性の処遇をめぐり、ガシンスカヤさんを豪州に留め置き、政治亡命者として受け入れるか、ソ連政府に引き渡すか、4日間にわたって頭を悩ませた。
ガシンスカヤさんはソ連政府から迫害を受けた明らかな証拠は提出できなかったが、当時、移民・市民権大臣を務めたマイケル・マックケラー氏は、最終的に亡命要請の受理を決めた。この決定は社会に大きな波紋を呼んだ。豪州に亡命を求めて漂着した挙句、要請が受理されずに本国へ送還される夥しい数の人がいる一方で、ガシンスカヤさんが受け入れられたのは、彼女がビキニを着ていたからに過ぎないと揶揄された。
亡命申請が受理されたガシンスカヤさんは、早速職探しを開始した。そしてさしたる逡巡もなく『ペントハウス』誌のための露わな写真撮影に同意した。ヌード写真を掲載した号にはこんな見出しがつけられた。「赤いビキニの女性がこんどはビキニを脱ぐ」。
ヌード写真で得た1万5千ドルはガシンスカヤさんの経済状況を好転させた。ガシンスカヤさんはその美貌とボディーを活かしてモデルとして働き、シリーズドラマでカメオ出演をした。そして百万長者との結婚まで果たしたが、その生活は長くは続かなかった。
ガシンスカヤさんの噂は高まり、ペテルブルグに住む妹のもとにも数度渡航し、後にはロンドンにわたって、3度目の結婚を果たし、息子を2人もうけた。
15年前、ガシンスカヤさんはオデッサから英国へ両親を引き取った。本人の話ではそれ以来、ウクライナには足を運んでいない。現在、56歳で豊かな生活を享受するガシンスカヤさんは若さと美しさを保ち、旅行にいそしんでいる。