戦争、零下30℃のロシアの酷寒、そしてシベリア鉄道での長旅・・・ ソ連軍の捕虜になった日本人兵士の物語

20歳で前線に赴き、捕虜となり、祖国から数千キロ離れた場所に送られながらも、人を信じつづけ、希望を持ち続ける。戦争映画のシナリオのような出来事を実際に体験したのが木内信夫さん。ソ連軍捕虜として苦労しながら、木内さんは日本に帰国し、自身の経験を多くの人々に語り継ぐ。スプートニクが、木内さんの波乱に満ちた人生を紹介する。
この記事をSputnikで読む

「日本人軍事捕虜の回想記」

第二次世界大戦の終戦後、異なる統計により50万人から60万人の日本人捕虜が、ウラル山脈の向こうのカムチャツカからヨーロッパ部に至るソ連の強制収容所に送られた。捕虜たちは採石、木材の伐採・運搬、また産業施設や住宅の建設、鉄道の敷設などの労働を強いられた。

犬に猫さらにラクダまで 第2次世界大戦に従軍した四つ足の「兵士」たち
そんな捕虜の一人だったのが、陸軍飛行兵だった木内信夫さんである。帰国後、木内さんは自身の抑留体験を水彩画にした。シリーズ「日本人捕虜の回想記」には、ソ連入国、つらい仕事、世界は友達だ(ドゥルージバ)、元気でやろう(ズドローヴィエ)、スコールダモイ(祖国への帰還)など、木内さんのシベリアでの体験を描いた50点以上の作品が含まれている。

木内さんの長男である木内正人さんは、父親の作品について、「一般に戦争画は殺りく場面や戦闘場面といった悲劇的な題材が多いのですが、父の作品には被害者も加害者もなく、日本人、ロシア人に関係ない人間一人ひとりの喜怒哀楽が描かれています。またそれは、兄弟である人類がつまらぬ戦争をしてはいけないという父のメッセージでもあります」と語っている。


「ほら、ジャガイモをやるよ」 

木内さんは、つらい体験をしたにもかかわらず、世界、そしてそこに住む人々を驚きと好奇の目で見つめつづける。木内さんの作品は収容所での生活や厳しい自然条件、そして過酷な労働を映し出すものである。しかし、そこにはそんな収容所生活の中にもあった、どこか面白おかしい、喜ばしい瞬間も表現されている。

ソ連南部のウクライナにあるスラヴャンスクに送られるまで、木内さんは吹雪と酷寒の中、採石の労働を強いられていたが、その後30日間シベリア鉄道に乗せられた。生活は厳しく、捕虜たちはときに、喉の渇きを癒すために、身体を洗った水を飲まなければならないこともあったという。シベリアでは与えられる食べ物が少なすぎることが原因で、夜盲症になり、夜、屋外にあったトイレまで手探りで行かなければならない者もいた。

 


世界は戦争のために作られたのではない

木内さんは1923年、東京府赤坂区(現・東京都港区赤坂)に生まれた。1944年に航空技能養成校を卒業し、満州の陸軍飛行戦隊に入隊した。終戦間際にソ連軍捕虜となり、1948年まで抑留生活を送った後、引き揚げ船恵山丸で帰国を果たす。復員後、沼津市の小糸製作所で勤務する傍ら、絵を描き始めた。日本を占領していた米国政府の決定により、小糸製作所が解体された後、木内さんは退社し、東京に移り住んだ。

東京ではパン屋、菓子屋、小物屋、ろうけつ染職人、焼き絵職人、クラフト職人、簪絵職人など、ありとあらゆる職に就いた。しかしどんな職業に就いていても、絵を描くことをやめることはなかった。

現在、木内さんは97歳。現在も、川柳を書き、絵を描き続けている。長男と孫が世界中のできるだけ多くの人々に木内さんの作品を見てもらい、また“世界は戦争のために作られたのではない”という考えを広めるため、木内さんの作品を紹介するサイトを作り、英語、ロシア語、イタリア語、ベトナム語などに翻訳している。

関連記事

コメント