第二次世界大戦の戦線における化学兵器と細菌兵器

ロシアで公開された新たなアーカイブ資料は、第二次世界大戦中の化学兵器と細菌兵器、そして戦闘におけるその使用を再び思い出させた。ロシア連邦保安庁(FSB)は、日本の関東軍総司令官だった山田乙三大将の尋問調書を機密解除し公開した。調書によると、1944年秋に「石井式」の細菌爆弾の使用について山田大将に報告された。これはペスト菌を保有したノミをばら撒く特別な爆弾で、関東軍の特殊部隊731部隊の隊長・石井四郎中尉の指揮の下、同部隊で製造され、生きた人間(朝鮮人、中国人、ソ連人の戦争捕虜)に対して実験された。
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第二次世界大戦のほぼすべての参加国が、化学兵器や細菌兵器に取り組んだ。しかしソ連、米国、英国におけるこれらの取り組みは、明らかに防衛的性質を有していた。化学兵器は、敵が使用した場合の報復として使用するとされていた。

日本

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日本は化学兵器と細菌兵器を戦闘で、しかも大規模に使用した唯一の国だった。日本は約1万トンの化学兵器を製造し、それらは砲弾や航空機搭載爆弾に詰められた(500万個~700万個)。

山田大将やその他の戦争捕虜の尋問調書によると、1944年に関東軍の指導部は「細菌の塊」の増産を命じた。関東軍の731部隊と100部隊はペスト菌、炭疽菌、コレラ菌、チフス菌、ガス壊疽菌などに人間を感染させる実験を行った。感染者の大多数が死亡し、回復した人たちは再び実験の対象となった。部隊のメンバーによると、実験では合わせて約3000人が死亡した。

旧日本軍は、中国での戦争で化学兵器を積極的に使用した。複数の情報によると、使用回数は2000回以上に上り、そこには大規模なガス攻撃も含まれている。

旧日本軍は、1943年11月~12月に実施された常徳殲滅作戦でマスタードガスの入った砲弾や、腺ペストに感染したノミを詰めた細菌爆弾を使用した。常徳殲滅作戦は極めて激しい戦闘で、日本軍は撤退した。

化学兵器は、サイパンの戦いと硫黄島の戦いでも使用される計画だった。

細菌爆弾は、1940年10月と1942年に中国の寧波港周辺で日本の航空機によって使用され、そこでペストの流行を引き起こした。また米国に対しても細菌兵器が使われる計画だった。そのために感染した昆虫用の容器が入った気球が開発された。

ドイツ

ドイツは戦前、無色、無臭、そしてサリン、ソマン、タブンなどの他の種類の化学兵器よりも毒性の高い新しいタイプの化学兵器の開発を行った。ドイツは戦時中に6万1000トンの化学兵器を製造したが、大規模には使用しなかった。個別の使用事例としては、1942年のクリミアの戦いがある。

ドイツでは細菌兵器を研究するグループが活動していた。このグループには弾道ミサイルV2が供給される予定だった。

英国

化学兵器は、ドイツによるブリテン諸島侵攻を撃退したり、ドイツが化学兵器を使用した場合の報復として使用するとされていた。

英国は終戦までに6万トンの化学兵器を製造し、航空機搭載爆弾や砲弾を装填するための工場が5つあった。

英国では家畜を感染させる細菌兵器の使用に関する実験が行われた。1942年、炭疽菌を使ってドイツの家畜を壊滅させる「Operation Vegetarian」計画が策定された。

米国

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米国では化学兵器に大きな注意が払われ、ドイツまたは日本が化学兵器を使用した場合の報復として使用するとされていた。

米国は1945年までに13万5000トンの化学兵器を製造した。化学兵器は戦闘で使用されなかったが、欧州へ運ばれた。1943年12月2日、ドイツの航空機が連合国の船が集まっていたイタリアのバーリ市の港を攻撃した。マスタードガスの入った砲弾を搭載していた米国の輸送船SSジョン・ハーヴェイなどが沈没した。ガスの放出によってバーリ市の住民や船員の間で大規模な中毒が発生した。

細菌兵器の研究は1942年11月に始まり、製造、備蓄、弾薬のサンプル作成などが行われた。

オーストラリア

第二次世界大戦における化学兵器の歴史の中で興味深いのは、オーストラリアが日本の侵攻を撃退するために化学兵器を受け取ったことだ。有毒物質は英国と米国から供給された。1944年5月、オーストラリアには25万発の砲弾と化学兵器の入った航空機搭載爆弾が250発あった。

ソ連

ソ連では戦前から大規模な化学兵器製造計画が進められ、ドイツの諜報機関によると、1937年にはすでに44の化学工場があり、生産能力は年間5万8800トンだった。これはドイツが第一次世界大戦で使用した量を上回っている。ソ連では1945年までに12万2500トンの化学兵器が製造されたが、戦闘では使用されなかった。

ソ連の学者たちは戦前と戦中に細菌兵器の研究を行い、そこには細菌兵器に対するワクチン製造に関する取り組みも含まれていた。一方、戦争の過程で抗生物質の開発と大規模な流行を防ぐための対策が最重要課題となった。


全体として、第二次世界大戦で化学兵器は事実上、使用されなかった。その理由の1つは、他の種類の武器よりも威力が劣っていたことだ。その密集度が戦線1キロあたり200〜250を超える大砲や榴弾砲による砲撃では、時に兵士が敵の塹壕を見つけることができないほど相手の防御を破壊した。戦争終盤の攻勢作戦では、その密集度が戦線1キロあたり300から450の大砲や榴弾砲による砲撃が行われた。このような砲撃はレンガ造りの建物、要塞、鉄筋コンクリート製の防御陣地を廃墟に変えた。榴弾砲は迅速かつ確実に、そして有毒ガスを使用した場合に自分の部隊が被害を受けるリスクなしに、敵の防御を突破することができた。

一方、化学兵器は、ナチスの強制収容所で人々を殺害するために広く使用された。「ツィクロンB」と呼ばれる青酸をベースにした殺虫剤は、1941年9月にアウシュヴィッツ強制収容所で初めて人間に対して使用された。この致死性ガスを放出するペレット剤は、1941年9月3日に初めて使われた。戦時中にナチスの強制収容所で使用された「ツィクロンB」により、数十万人もの人々が殺害された。

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