日本の皇族には、1947年(昭和22年)に公布された皇族典範にしたがった厳しい決まりがある。男性が一般家庭の女性と結婚するときには、女性は皇族の称号を与えられるが、皇女が一般人と結婚するときには、皇族としての称号を捨て、公式的には家族とのつながりを断たなければならない。
池田厚子さん(順宮厚子)
厚子さんは、昭和天皇の第4皇女子で、1952年10月、21歳のとき、備前国岡山藩主の家系で元公爵の池田宣政の長男である池田隆政さんと結婚した。厚子さんは後楽園荒手茶寮にて、池田氏と出会った。結婚式には皇族から多くの人々が参列したが、父親だけの姿だけがなかった。後に、「風邪をひいて寝ていた」ためと説明された。
厚子さんは、池田さんが50年以上にわたって動物園と牧場の経営を行なっていた岡山に移り住んだ。厚子さんはその後、1988年から2017年にかけて、姉の後を継いで、伊勢神宮の祭主となった。2017年6月19日まで祭主を務めたあとは姪の黒田清子さんにこの任務を譲り渡している。
黒田清子さん(紀宮清子)
現在52歳になられた清子さんは、若いときから自分の人生は自分で決めると決意していた。また結婚の年齢が近づいた時も、清子さんは両親に、結婚については、自分が結婚する心算ができたときに、自分の意思で決断すると伝えたという。清子さんは東京の学習院大学文学部国分学科(現在の日本語日本文学科)に入学したが、そこで次兄の秋篠宮文仁親王が友人の黒田慶樹さんを紹介した。
黒田清子
© AFP 2023 / Franck Robichon
厚子さんは、池田さんが50年以上にわたって動物園と牧場の経営を行なっていた岡山に移り住んだ。厚子さんはその後、1988年から2017年にかけて、姉の後を継いで、伊勢神宮の祭主となった。2017年6月19日まで祭主を務めたあとは姪の黒田清子さんにこの任務を譲り渡している。
清子さんはすぐに結婚の承諾を得られたわけではなかったが、意思の強い清子さんは諦めなかった。そして結局、2005年になってついに結婚。このとき、清子さんはすでに鳥類研究所で勤務し、黒田慶樹さんは東京都職員であった。
千家典子さん
典子さんは、2014年に一般人の千家国麿さんと結婚した。
千家 典 子
© AFP 2023 / Yoshikazu Tsuno
千家国麿さんは、出雲大社宮司、千家尊祐の長男。千家家は、代々、出雲国造を務めてきた。ふたりは2007年4月に、典子さんが出雲大社を訪ねたときに知り合った。
守谷絢子さん
典子さんの妹で、第126代天皇徳仁の再従妹にあたる絢子さんは、2018年に一般人と結婚している。お相手は32歳の日本郵船社員だった守谷慧さんと10月29日に結婚した。絢子さんは8人目の元皇族となった。
守谷 絢子
© AFP 2023 / Toru Hanai
現在、日本の皇族はわずか17人となっており、そのうちの12人が女性である。若い世代の中で唯一の男性は、眞子さんの弟である12歳の悠仁さま。今後は公式的には悠仁さまが次の天皇になることになっている。
ウボンラット王女、タイ
ウボンラット王女は、1951年に、ラーマ9世国王(プーミポン・アドゥンラヤデート)とシリキット王妃の長女として生まれた。21歳になったとき、彼女は愛する人と一緒にいたいと願ったことから、王族籍を剥奪された。
ウボンラット王女
© AFP 2023
ウボンラット王女は、米国人のピーター・ラッド・ジェンセンさんとともに米国に渡り、その後3人の子供に恵まれた。しかし、幸せはそう長くは続かなかった。1998年にふたりは離婚。ウボンラット王女はタイに帰国した。現在はラーマ9世の外戚として王族に準じた扱いを受け、慈善活動を行なっている。
エドワード8世、英国
エドワード8世は1936年に、父親のジョージ5世の崩御を受け、王位を継承した。しかし、このとき、エドワード8世はすでにウォリス・シンプソンという女性に恋をしていた。この女性は2度の結婚と2度の離婚を経験した米国人であった。エドワード8世は、父親が逝去した後、王位か愛かのどちらかを選ばなければならないことを知っていたが、答えは決まっていたという。
エドワード8世とウォリス・シンプソン
© AP Photo
エドワード8世の退位は人々に大きな衝撃を与えた。不穏な噂を持つ女性のため、王位を退くと決めたのである。しかも、婚約が発表されたとき、ウォリスはまだ2人目の夫と離婚調停中であった。湧き上がったスキャンダルに、エドワード8世は、「愛する女性の助けと支えなしに、王としての義務を果たすことはできない」とコメントした。
意思を貫いたふたりはフランスに移り住み、エドワード8世が亡くなるまでそこで暮らした。ウォリスは1986年にこの世を去った。
ルイ・ド・リュクサンブール
ルイは、コソボに駐留するルクセンブルク軍を慰問した際、女性兵士だったテシー・アンソニーと知り合った。
ルイ・ド・リュクサンブールとテシー・アンソニー
© AFP 2023 / Belga / Nicolas Bouvy
彼女は屋根葺き職人の娘で、自発的に軍に入隊した。若い2人は互いに激しく魅かれあった。2006年には子供が生まれ、その数ヶ月後、ルイとテシーは結婚式を挙げた。ルイは結婚にあたり、ルクセンブルク大公位の継承権を放棄することが取り決められたが、ルクセンブルク大公家の一員としての称号は維持した。しかし、テシーと息子ガブリエルは、「ド・ナッソー」の姓を許されただけであった。結婚生活は11年続いたが、2017年にふたりは離婚。テシー・アンソニーは子供たちの教育や政治活動に集中したいとする一方、ルイは大公家の一員としての義務を遂行し続けている。