ルノー・日産・三菱アライアンス誕生の経緯
日産自動車は1990年代末から2000年代初頭に深刻な財政難に陥った。1992年に創業以来初の損失を出し、その後、損失は増加の一途をたどった。1994年、日産は日本の自動車メーカーとして初めて日本国内の工場を閉鎖、外国では人員削減を行った。
1999年、倒産まで残り数週間となったとき、ルノーが日産の株式36.8%を6430億円(当時のレートで54億ドル)で取得した。2002年、ルノーは株式保有比率を44.4%に増やし、日産はルノーの株式15%を取得した。1999年、日産とルノーはルノー・日産アライアンスを締結、2016年に三菱自動車が同アライアンスに加わった。日産は三菱自動車の支配権を取得した。そしてルノー・日産・三菱アライアンスが形成され、2017年上半期の世界販売台数で首位となった。
利益は愛より強かった
日産自動車のカルロス・ゴーン会長の逮捕と解任後、ルノー・日産・三菱アライアンスが崩壊するおそれが現実に生じた。パートナーたちは実際、互いに対して多くの要求を持っていたが、自動車市場の競争が激しい状況の中での「離婚」は自殺行為に等しかった。そのため、企業のトップらは電気自動車などの次世代自動車を製造するための生産拠点の一元化で力を合わせることを決めた。意見の食い違いを解消するために、条件つきで「担当地域」を分割した。ルノーは欧州、ロシア、南米、北アフリカを担当し、日産は日本、北米、中国を担当、三菱は東南アジア諸国連合(ASEAN)とオセアニアを担当することが決まった。
日産自動車:アライアンスの条件を見直す時が訪れた
ルノー・日産・三菱アライアンスが最終的に形成された後に日産が取得したルノー株はわずか15%で、ルノーの決定に影響を及ぼす権限はない。一方、ルノーは日産の株式43%を保有している。現実的な力関係が自分たちにとって有利ではなかったため、日本側は長期にわたってこのような不平等に耐えることを余儀なくされていたが、日産がそのアライアンスへの参加条件をより有利なものにできる時が訪れた。ルノーは現在、電気自動車の新会社の設立を目指している。専門家たちによると、これはルノーにとって極めて重要であり、ルノーは電気自動車の欧州市場でテスラやフォルクスワーゲンとの激しい競争を余儀なくされている。ルノーは、日産からの出資がなければ新会社設立に関するプロジェクトを始動することができない。ルノーは現在、日本のパートナーたちからの資金援助をかつてないほど必要としているという。
自社にとって欧州市場は戦略的に重要ではないと考えている日本企業にとっては、電気自動車の新会社設立への出資を求めるルノー側の申し出は特に興味深いものではないが、これは日本側にとってより有利にアライアンスの条件を変更することに関するルノーとの取引を成功させるための条件を作り出す。日産側は、ルノーのルカ・デメオCEOが日本に滞在している間に、この問題について話し合う意向。日産は、ルノーが保有している日産株15%に引き下げることで、両社の協力関係を対等な立場に置きたいと考えており、おそらく成功するとみられている。
ロシアで日産を待ち受けているものとは?
日産は、ロシア事業を手掛ける子会社「ロシア日産自動車製造会社」の全株式をロシアの自動車・エンジン中央科学研究所(NAMI)に売却することを決定した。日産によると、サンクトペテルブルクにある日産の生産・研究開発施設と、モスクワにある販売・マーケティングセンターは新名称で運営される予定。ロシアのデニス・マントゥロフ副首相兼産業貿易相は、日産車のアフターサービスおよび部品供給はロシアのアフトヴァズ社が担当することを明らかにした。
マントゥロフ氏は「『ロシア日産自動車製造会社』はその資産を国へ譲渡する。この取引は業界にとって重要な意味を持つ。交渉の過程で、主要な能力、生産サイクル、雇用が維持され、会社が操業を続けるという形式に到達することができた」と述べた。
プレスリリースによると、日産の社長兼CEOの内田誠氏は「日産を代表して、長年にわたりビジネスに貢献してくれたロシアの仲間に感謝致します。ロシア市場で事業を続けることはできませんが、我々の仲間を最大限支援できる解決策を見つけることができました」と述べた。
日産のサンクトペテルブルク工場は、部品調達に支障が出ているとして、3月14日から稼働を停止していた。
スプートニクは先に、普通車と同価格帯の電気自動車をリリースするというルノー・日産・三菱アライアンスの計画について報じた。
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