地獄の終焉 ソ連軍による78年前のアウシュヴィッツ強制収容所解放

地球上には地獄と呼べるような場所はそう多く存在しない。だがその呼び名にふさわしい場所がある。それは独ファシストの強制収容所。中でも最たる「地獄」が現在のポーランド領内に残るアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所だった。規模の上でも最大で、最も長期に存在したナチスの殺戮のための収容所には火葬場、ガスマスク、終わりのない重労働の中で110万人以上の人間が飢えと病気に苦しみながら死んだ。収容されていたのはユダヤ人だけではない。ジプシー、ポーランド人、ソ連市民も送り込まれていた。アウシュヴィッツは1945年1月27日、ソ連軍によって解放された。異名「死のキャンプ」は一体どんなところだったのだろうか。
この記事をSputnikで読む
アウシュヴィッツ収容所の門に掲げられていた有名な文句がある。「働けば自由になる」("Arbeit macht frei")。これこそ、門の向こう側で起きていた戦慄させる事態と恐ろしいシニシズムを強調している。苦しみながら死ぬ以外、収容所からの解放はなかった。
1 / 3

アウシュビッツ収容所の門には、ドイツ語で「働けば自由になる」の文字

2 / 3

アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所

3 / 3

アウシュビッツ強制収容所。1947年、この収容所の博物館が設立された

子どもや体の弱い女性、老人は到着するや否や殺され、それ以外は裸で剃られ、腕に通し番号を入れ墨されてバラックに送られた。双子や小人症の人間は眼をつけられると、「死の天使」と恐れられていたドイツ人医師ヨーゼフ・メンゲレによって手術台に載せられ、恐ろしい人体実験の対象にさせられた挙句、殺された。
アウシュビッツ強制収容所の子どもたち(1945年)
囚人たちは収容所の中だけでなく、様々な民間企業の仕事までさせられた。生存条件はまさに奴隷的で非人道的なものであり、衰弱のあまり死ぬ者、その場で処刑された者もいた。朝、バラックで病気の人間が見つかると、銃で撃たれるか、炉にくべられ、焼かれた。
これだけ過酷な生活の中にありながらも、アウシュヴィッツに送られた人たちの中には助け合いを忘れぬ人がたくさんいた。食料や偽造証明書でユダヤ人を助けたために収容所送りになったポーランド人助産師スタニスラワ・レシチンスカの名はよく知られている。レシチンスカは収容所で3千人以上の女性の出産を助け、嬰児殺しを断固として拒んだ。彼女は収容所生活を生き延び、戦後も病院で仕事を続けた。レシチンスカ自身、収容所でチフスにかかったところを同じく収容されていた医師イレーナ・ビャルヴナに助けられている。
1944年末、ソ連軍はアウシュヴィッツの近くまで迫った。独政府は捕虜をドイツに「疎開」させることを決め、1945年1月20日、ソ連軍が進軍する中、収容所の破壊を命じた。
1 / 4

アウシュビッツ強制収容所は、ヴィスワ=オーデル作戦でソ連軍によって解放された

2 / 4

アウシュビッツ強制収容所のバラック。1945年1月撮影。アウシュビッツ収容所は、ナチスによる絶滅政策を目的とした収容所の中で最大かつ最も長く運用された

3 / 4

1945年1月、赤軍の部隊によって解放されたアウシュビッツ強制収容所の囚人たち

4 / 4

強制収容所で亡くなった囚人のスーツケース

1945年1月27日、ソ連軍はアウシュヴィッツに入場した。収容所が解放されたこの日を国連は「ホロコースト犠牲者を想起する国際記念デー」に制定している。
レニングラード封鎖突破から80年 ソ連軍による英雄的な都市解放の歴史
収容所の所長を務めたルドルフ・ヘスが逮捕されたのはそれから1年後の1946年5月。ヘスはアウシュヴィッツの火葬場の一つの近くで絞首刑にされた。アウシュヴィッツ強制収容所はナチスの残虐行為、集団虐殺、ホロコーストの象徴となった。
コメント