アウシュヴィッツ収容所の門に掲げられていた有名な文句がある。「働けば自由になる」("Arbeit macht frei")。これこそ、門の向こう側で起きていた戦慄させる事態と恐ろしいシニシズムを強調している。苦しみながら死ぬ以外、収容所からの解放はなかった。
子どもや体の弱い女性、老人は到着するや否や殺され、それ以外は裸で剃られ、腕に通し番号を入れ墨されてバラックに送られた。双子や小人症の人間は眼をつけられると、「死の天使」と恐れられていたドイツ人医師ヨーゼフ・メンゲレによって手術台に載せられ、恐ろしい人体実験の対象にさせられた挙句、殺された。
囚人たちは収容所の中だけでなく、様々な民間企業の仕事までさせられた。生存条件はまさに奴隷的で非人道的なものであり、衰弱のあまり死ぬ者、その場で処刑された者もいた。朝、バラックで病気の人間が見つかると、銃で撃たれるか、炉にくべられ、焼かれた。
これだけ過酷な生活の中にありながらも、アウシュヴィッツに送られた人たちの中には助け合いを忘れぬ人がたくさんいた。食料や偽造証明書でユダヤ人を助けたために収容所送りになったポーランド人助産師スタニスラワ・レシチンスカの名はよく知られている。レシチンスカは収容所で3千人以上の女性の出産を助け、嬰児殺しを断固として拒んだ。彼女は収容所生活を生き延び、戦後も病院で仕事を続けた。レシチンスカ自身、収容所でチフスにかかったところを同じく収容されていた医師イレーナ・ビャルヴナに助けられている。
1944年末、ソ連軍はアウシュヴィッツの近くまで迫った。独政府は捕虜をドイツに「疎開」させることを決め、1945年1月20日、ソ連軍が進軍する中、収容所の破壊を命じた。
1945年1月27日、ソ連軍はアウシュヴィッツに入場した。収容所が解放されたこの日を国連は「ホロコースト犠牲者を想起する国際記念デー」に制定している。
収容所の所長を務めたルドルフ・ヘスが逮捕されたのはそれから1年後の1946年5月。ヘスはアウシュヴィッツの火葬場の一つの近くで絞首刑にされた。アウシュヴィッツ強制収容所はナチスの残虐行為、集団虐殺、ホロコーストの象徴となった。