街は初戦の数日間でほぼ占領された
ロシア南部の街ヴォルゴグラードは、1961年までスターリングラードと呼ばれていた。スターリングラード攻防戦は1942年7月17日に始まり、初戦の数日間で全8地区中7地区が占領された。
赤軍の支配下にあったのは、この街の南部だけだった。その非人道的な状況の中で、ソ連軍はドイツの侵略と戦わなければならなかった。
「一歩も下がるな!」
1942年7月28日、ソ連軍の最高司令官だったヨセフ・スターリンは、「一歩も下がるな!」という命令(国防人民委員第227号)を出さざるを得ないほど、スターリングラードの心理的緊張とパニックは異常なレベルに達していた。この命令は、戦線の戦略的状況が急激に悪化し、赤軍が大敗を喫して撤退し始めた際に下された。
この命令の狙いは、軍の敗北主義的な感情を排除し、軍隊の厳格な規律を確立することだった。スターリンは、上位の指揮官の命令なしに部隊の退却を許した指揮官は、どの階級であっても解任し、軍法会議にかけるよう要求した。
要塞と化したアパート
スターリングラード攻防戦の頃に使用されていたドイツ側の地図を見ると、4階建ての普通のアパートが難攻不落の「要塞」に変わったと記されている。このアパートは58日間、ソ連兵のグループによって守られた。このアパートは、指揮を執った上級曹長の苗字をとって「パブロフの家」と呼ばれ、世界中に知られている。
1942年秋、ドイツ軍がこの町に進駐すると、文字通りすべての道で戦いが繰り広げられた。ドイツ軍はこの年の9月23日にパブロフの家を攻撃したが、最初の攻撃はドイツ側に何の成果ももたらさなかった。このアパートは、各階と地下に陣取った25人の守備隊によって守られていた。ドイツ側が1日に何度も攻撃を行なったにも関わらず、パブロフの家の守備隊は抵抗を続けた。
現在、パブロフの家は不屈の精神、英雄、軍事的功績の象徴の一つとなっている。
スターリングラードの最も恐ろしい日
スターリングラードの歴史に残る運命の日、それは1942年8月23日のことだった。この日、軍用機200〜300機からなるドイツ軍の軍団が次から次へと波状攻撃を行い、街の中心と北側を実質的に破壊してしまった。この町は事実上、壊滅状態となった。正確な死傷者数はまだ確定していないが、死者数は4〜8万人といわれている。しかし、スターリングラードが占領されることはなかった。無慈悲な砲撃はその目的を達成することはなく、赤軍兵士たちの闘志は折れなかったのだ。
スターリングラードでの平均余命は15分
スターリングラードで戦う兵士の平均寿命は、ドイツ人、ロシア人を問わず、約15分であった。つまり、突然この街に放り出された人間は、翌日まで生き残れる可能性はほとんどないほど、激しい戦闘が繰り広げられたのである。
地獄の200日間
スターリングラード攻防戦は、1942年7月17日に始まり1943年2月2日に終結した。この期間はちょうど200昼夜。 ちなみに、ドイツ軍は約40日間(1940年5月10日から6月22日)でフランス全土を制圧した。
勝利への道 ウラヌス作戦
夏から秋にかけて驚異的な損失を被ったソ連兵は、「ウラヌス作戦」命名された反攻を実行するべく意志を固めた。ソ連軍の3人の将軍(N.F.ヴァチューチン、A.I.エレメンコ、K.K.ロコソフスキー)によって、ドイツ第6軍(司令官はパウルス)を包囲し町を解放することが計画された。この時、主に砲兵の準備に重点が置かれた。
80分間に及ぶ強力な砲撃準備と「カチューシャ」ロケット砲の一斉発射の後、1942年11月19日にこの作戦が開始された。
11月30日、ソ連軍はスターリングラードでドイツ軍を事実上包囲し封鎖した。1943年1月8日、ソ連軍司令部はパウルス第6軍司令官に降伏の最後通牒を出したが、ヒトラーは断固として降伏を拒否した。そして、ソ連軍は第6軍を完全に撃破するための攻勢作戦を開始した。その後、スターリングラードは解放された。
スターリングラード攻防戦は、大祖国戦争がソビエト軍にとって有利になる転機となった。ロシアでは現在、11月19日は「ロケットと大砲の日」と定めされている。