推定によって数値は異なるが、ベトナム戦争の死者数はベトナム側は兵士、民間合わせて96万6000人から300万人、米国は約5万8000人の死者とされている。
米オハイオ州立大学のジョン・ミュラー名誉教授はスプートニクに対し、ベトナム戦争は開戦当時、米国民の70%の支持を得ていたものの、死者が増えるにつれ、国民の熱狂的支持は瓦解し、世論は最終的には国外の紛争への米国の関与により否定的な評価を示すようになったと語っている。
「いわゆる『ベトナム症候群』で、米国社会では冷戦における国の立場を支持しながらも戦略的に直接的な軍事行為には反対する傾向が強まりました。これは9.11(編集:2001年9月11日の同時多発テロ)まで続き、その後、今度はいわゆる『イラク症候群』の時代に突入します。これはテロ闘争の支持率は高いものの、戦略的な直接的戦争は支持しないというものです」
米国立サンディエゴ大学、米国国際関係史学科のピエール・アセリン学科長は、その後、米国の外交政策についての世論はベトナム戦争での喪失から、一時的には好戦的性格が薄まったと指摘している。
「ニクソン政権(1969-1974)は対露関係の雪解けと中国への接近を執拗に図って成功させました。続くフォード(1974-1977)、カーター(1977-1981)両大統領の政権時代、米国は極めて慎重な外交政策を取り、キューバとソ連がアフリカ諸国でサハラ砂漠から南へ向かって展開した『アバンチュール』(アンゴラ、モザンビークなど)にはソフトかつ慎重な反応を見せていたのです」
ソ連が1970年代末にソマリアとエチオピアの間で起きたオガデン戦争に関与し、アフガニスタンに軍事侵攻を行うと、米国は外交政策でより攻撃的な姿勢を見せるようになった。
ロンドン大学のロバート・シン政治学教授は、ベトナム戦争は外交政治問題のが変化する端緒となったと語る。その変化とは今日に通じ、のちにイラク、アフガニスタンへの侵攻と突き動かす原動力となる、いわゆる新保守主義的の勢力の増長のことだ。
「外交政策での比較的コンセンサスの時代は終わった」シン教授はこう語っている。
シン氏は米国はベトナム戦争の後、徴兵制を100%廃止し、志願制に切り替えたが、これは階層格差をさらに深刻化させただけだったと語っている。
「これは重要なことです。なぜならこれで兵役につくのは米国民の1%以下になったわけですが、社会は戦う層の文化と共通項がほとんどないのです。米国では階層格差と相まって、2つの異なる文化の枝分かれが進みました。1つは伝統的な進歩的左翼、もう一方はナショナリズムを支持する文化です」
シン氏は、ベトナム戦争が連邦政府と政界のエスタブリッシュメントへの信頼を大きく損ねる結果となったと指摘する。
シン氏は、ベトナム戦争が見せつけたのは「大統領をはじめとする役人が米国民を欺いてきた」事実であり、「米国の政治は以来、正当化できないまま今日まで至っている」と語っている。