スーパーセイバーの墜落 常識では考えられない

1959年6月30日午前、米軍のスーパーセイバー戦闘機F-100Dが沖縄県の石川市(現うるま市)に墜落した。墜落したのは、同市の住宅密集地にある宮森小学校だった。この墜落で18人が死亡、210人が負傷した。パイロットのジョン・G・シュミット大尉は空中で脱出した。
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これは沖縄駐留米軍史上最悪の航空事故のひとつである。広く世間に知られている。この墜落事故は、沖縄の住民の間に激しい抗議行動を引き起こした。米軍司令部は抗議行動が広がるのを避けるため、早々と死亡や負傷の補償として総額11万9000ドル支払った。1965年、墜落現場には慰霊碑が建てられた。この墜落事故は、現在でも米国の多くの軍事学校で学ばれている。
欠陥のある記録保持者
航空機事故には通常、多くの原因がある。第一の原因は、航空機そのものである。
F-100は数々の記録を打ち立てた最初の米国製航空機だった。1955年8月には、時速1323キロという世界最速の記録を樹立した。同機は、水平飛行で超音速に達した米航空艦隊初の航空機だった。先代航空機では急降下でしか音速の壁を乗り越えることができなかった。
この航空機は初めて空中給油を実施した。1957年5月、3機のF-100が着陸せずに空中給油を受けてロンドンからロサンゼルスまで飛行した。1959年8月には、2機のF-100が北極点上空を飛行した。
さらにF-100は、ベトナム戦争でも活発に使用された。
だが同時に、F-100は信頼性がなかった。1953年から1959年までに2294機が製造された。そのうち38.7%に当たる889機が墜落し、324人のパイロットが死亡した。
事故は絶えなかった。1954年9月27日、同機は正式に米空軍第479戦航空団で運用が始まったが、すでに同年11月10日に6機が墜落している。改良も特に役に立たなかった。1958年だけで116機が墜落し、47人のパイロットが死亡した。1961年、米空軍は同機の使用を中止した。
だが、冷戦がF-100を復活させた。同機は訓練機として使用された他、ベトナムでは爆撃機として戦闘作戦に投入された。ベトナムでは、地上からの攻撃で186機が撃墜され、飛行場でベトコン(南ベトナム解放民族戦線)の工作員により7機が破壊され、非戦闘中の事故で45機が失われるなど、損失は242機に上った。F-100が撃墜したとされる敵機は1機もない。
そして1970年、F-100はついに退役した。
F-100には、パイロットにとって非常に危険な設計上の欠陥がいくつもあった。かなり手を加えて改造しても、この機体を改善することはできなかった。
明らかに欠陥のあるエンジンを搭載した航空機
第18戦術戦闘航空団のF-100D、機体番号55-3633Aは、1959年6月30日午前、嘉手納基地を出発し試験飛行を行っていた。
それより前の1959年5月21日、同機はエアーアメリカ社の技術センターがある台湾の台南市の基地に向かった。そこで機体の整備と修復作業が行われた。
しかし、試験飛行前の1959年6月17日、エンジンに深刻な問題が発見された。6月21日には試験飛行が行われたが、パイロットはエンジンに多くの問題があると報告した。
にもかかわらず、同機は6月25日に嘉手納基地へ再び移動し、品質管理委員会による検査を受けた。25箇所の問題が見つかり、そのうち6つは非常に深刻なものだった。
同機は6月29日に試験飛行を行う予定だったが、悪天候のため延期された。そして6月30日、これが最後の試験飛行となった。
この飛行中にエンジンからの燃料漏れがあり、火災が発生した。パイロットは機体を基地に戻そうとしたが、エンジンが爆発。パイロットはパラシュートで脱出し、航空機は石川市住宅地に墜落した。
つまり、突然故障したわけではなかったのだ。空軍基地司令部、整備士、パイロット自身は機体のエンジンが深刻な問題を抱えていることを数日前から知っていた。この出来事の中で最も理解しがたいのは、なぜ嘉手納基地ではこれほど頑なに、明らかに欠陥のあるエンジンを搭載したF-100Dを試験飛行させようとしたのかということだ。何を期待していたのだろうか?故障が勝手に直ることを期待していたのか?
この大惨事を招いた主な責任は、空軍基地の司令部と第18航空団の指揮官にある。当時の第18航空団司令官フランシス・R・ロイヤル大佐は、エアーアメリカ社の技術者が整備後にエンジンを適切に組み立てなかったと非難した。しかし、だからといって、この大惨事をもたらした試験飛行を許可した責任が免除されるわけではない。
パイロットは苦戦しつつも着陸を試みていた可能性がある
さて、パイロットのジョン・シュミット大尉だが、明らかに不具合のある航空機のハンドルを握るという最大のミスを犯した。なぜそんなことをしたのかは不明だ。彼は飛行を拒否し、航空機は出発の準備が整っていないと報告すべきだった。
墜落事故調査後の米司令部の報告によると、パイロットは飛行機を人口密集地から遠ざけようとした。しかし、地図を見ると疑問が生じる。
航空機が墜落した宮森小学校は石川市の沿岸から西に約1.5キロ、そこから嘉手納基地の滑走路北東端までは約8.5キロある。航空機の正確なルートは詳細が公表されていないため不明である。しかし、パイロットは北西から飛行し、海岸線を横切り、石川市上空で南西に緩やかに旋回し、空軍基地に着陸しようとしたようだ。
もしこの時点で航空機がまだ制御可能で、パイロットが着陸ができないことに気づいていたなら、航空機を東か南東にむけて石川市の東にある広大な湾に突っ込み、脱出すればよかったのだ。そうすれば誰も被害にあうことはなかった。
しかし、推測するかぎり、パイロットは間違いなく空軍基地に着陸しようとしていた。着陸準備中にエンジンが爆発した。正確な原因は不明である。機体が速度と高度を失っていったが、パイロットは損傷したエンジンから動力を絞り出そうとしたと思われる。だが、こうした状況では、速度と高度を保つことが重要な要素だ。
エンジンの爆発により垂直尾翼と方向舵が破壊され、吹き飛ばされたとみられる。F-100では、エンジンの周囲にそれらが配置されており、手段を失った航空機は完全に制御を失い、木の葉のように落ちるしかなかった。パイロットは何もすることができなかった、だから脱出した。
常識では考えられない
では、墜落に至った要因は何だったのか。
第一に、F-100は信頼性の高い航空機ではなく、頻繁に墜落事故を起こしていた。
第二に、このF-100Dは飛行の数日前に深刻なエンジンの不具合が判明していた。
第三に、基地司令部と航空団司令官が何らかの理由でこの欠陥機を試験飛行に出すことを決定し、パイロットが飛行に同意したこと。
第四に、パイロットはエンジンに火がついた状態で、難しく危険な基地への緊急着陸を試みたこと。
一連の誤った判断が死傷者の出る大惨事をもたらした。職務や指示、さらには常識を無視したあってはならない事例である。
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