「爆心地から3キロ、幸い被害は少なかった」 広島被団協理事長が当時を振り返る

8月6日の広島原爆の日、広島県原爆被害者団体協議会(広島県被団協)の佐久間邦彦理事長がスプートニクの取材に応じ、原爆が投下された当時の状況やその後の生活、次世代に伝えたい教訓などについて語ってくれた。
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スプートニク: 今日で広島の原爆投下から79年が経ちました。あの日のことをよく覚えていらっしゃいますか。
佐久間氏: あの時、私は生後9か月で、まだ生まれて1歳になっていなかったので覚えていません。
スプートニク: 当時、広島のどの辺りにいらっしゃったんですか。
佐久間氏: 爆心地から西に3キロのところにある、己斐町という場所にいました。
スプートニク: 原爆が投下されたとき、ご家族とは一緒にいらっしゃったのですか。
佐久間氏: 家にいたのは私と母の2人だけでした。6人家族だったんですが、父はあの日月曜日でしたので、仕事に出かけており、家にはいませんでした。祖母と姉2人がいましたけども、広島県の隣の山口県の出身で、そこへ疎開していましたから、家にいたのは2人だけでした。
スプートニク: 大きくなってから、お母様から何かお話を伺ったことはありますか。
佐久間氏: 1957年、私が13歳の頃、母から原爆の話を聞きました。それまで原爆の話は聞いたことはありませんでした。原爆が投下された時、ピカッと光り、ドーンという音がしたといわれていますが、母によると、私がいた場所では音はしなかったそうです。光は感じていたととのことで、焼夷弾は落ちたけれど爆発はしなかったんじゃないかと言っていました。母は心配して私を連れて避難所へ行く途中に黒い雨に遭ったそうです。
スプートニク: 佐久間さんのお家はどのような状態でしたか。無事だったのでしょうか。
佐久間氏: 当時の家は木造で、木の板が使われていました。屋根や屋内には瓦があるのですが、全てではないですが、多分爆風で散らばってしまったと。それから、家を支える柱が爆風で傾き、柱と柱の間にある壁も崩れてしまったと聞いています。ただ、住めない状態ではなかったと聞いています。
スプートニク: 原爆投下後も同じ家に暮らしていたということですか。
佐久間氏: そうですね。
スプートニク: 原爆投下後、ご家族にはどのような影響がありましたか。何か病気にかかったりしましたか?
佐久間氏: 小学校4年生、5年生、つまり10歳と11歳の頃、私は腎臓病と肝臓病を患い、それぞれ3か月程学校を休みました。それが原爆の影響によるものであったかどうかは、当時は分かりませんでした。
スプートニク: 当時、どなたかからお手伝いや支援を受けることはありましたか。たとえば、友人や親戚からの支援、または現地の行政機関からの支援など、何かありましたか。
佐久間氏: そういうのは全くありませんでした。
スプートニク: 原爆投下後、大人たちは仕事がなかったということでしょうか。収入が無かったと思われますが、どのように生活を送っていたのですか。
佐久間氏: 大人たちもすぐには仕事ができない状況でした。私の父は原爆の影響が比較的少なかった会社に勤めていましたので、仕事自体は再開できたと聞いています。それなりの賃金をもらっていたと思いますが、近所の人たちがどのように生活していたのかについては、私は聞いていません。
スプートニク: 広島では、どのようなものを食べたり飲んだりしていましたか。
佐久間氏: その辺の事は私は分かりません。ただ、しばらく経ってから、政府や行政からお米が配給されるようになったと聞いています。
スプートニク: 広島市の復興のため、ご家族はどんなことに取り組まれましたか。
佐久間氏: そのような話は聞いていませんが、町内会の元気な人たちが困っている場所に手伝いに行ったと聞いています。
スプートニク: このような悲劇が起きたことについて、次の世代にどのような教訓を伝えたいとお考えですか?
佐久間氏: 原爆の被害は爆心地から離れるにつれて減っていくため、遠くの地域ではあまり被害を受けませんでした。爆心地から半径2キロ程の場所が一番被害がひどかったのですが、私の住んでいた場所は3キロ離れていたため、即死した人たちの話などは聞いたことはありません。
私の住む地域は都市部で、農業地帯とは異なります。それでもお米がなかったため、サツマイモなどを作って食べていたと聞いています。ただ、生活状況については、子どもの頃にはほとんど聞いたことがなく、大人になってから本を読んだり、当時のことを知っている人から話を聞いたりしました。
スプートニク: 佐久間さんは広島県の被団協の理事長ですが、皆さんはどのような方法で原爆の記憶を守っているのですか。
佐久間氏: 8月6日の被団協の具体的な活動としては、まず平和記念式典への参加や、原水爆禁止世界大会の行事への参加があります。一応、この日は休業にしていますが、各自がそれぞれの活動をしながら、式典への参加など、一緒にできることに取り組んでいます。
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