満蒙国境で日本とソ連が衝突し、ノモンハン事件が始まった1939年5月、ドイツは軍高官を東京に派遣し、対ソ侵攻が可能かを議論。独側は日本が先に攻撃し、欧州からソ連軍の目をそらす必要があると考えていた。
一方、日本側でも北進論はあったが、対ソ本格開戦は独軍が欧州方面で同時に侵攻する場合にのみ可能という立場だった。当時、日中戦争が泥沼化しており、日本は極東のソ連軍にしか対応する余力がなかった。
また、極東に展開するソ連軍兵力に関する日独のデータを比較すると、独側の方が少なく見積もっていた。FSBは「ドイツが日本を対ソ戦に引きずり込むため、過小評価したデータを日本側に見せていた可能性」を指摘している。
だが、結局ノモンハン事件で敗北後、日本の指導部は対ソ参戦という考えに非常に慎重になった。そうして、ドイツからの干渉や国内の急進的北進論者の圧力に耐えることができた。