米国では1945年から、「Totality」、「Pincher」、「Dropshot」、「Broiler/Frolic」、「Charioteer」、「Halfmoon/Fleetwood」、「Trojan」、「Off-tackle」などのコードネームの下、対ソ戦争計画が練られた。原爆投下の主な役割は、戦略爆撃機「B-29 Superfortress」に任された。広島と長崎に原爆を投下したB-29は、敵を寄せつけない爆撃機だと考えられていた。
しかし、強力な戦闘機に護衛された自慢の「Superfortress」は、朝鮮上空でソ連の戦闘機のパイロットたちと初めて衝突した時に大敗を喫した。
多くの専門家たちは、1950-1953年の朝鮮戦争を、「冷戦」時代における米国とその同盟国と、ソ連および中国との最初の大規模な軍事紛争であると考えている。
1951年4月12日、米空軍のB-29A爆撃機48機が、最新のF-86 Sabreを含む約100機の戦闘機の援護を受けて、北朝鮮軍の戦略的に重要な拠点であるヤールー川に架かる鉄道橋を爆撃しようとした。そしてこれを迎撃するためにMiG-15戦闘機44機が飛び立った。10分超の短い空中戦で、ソ連のパイロットたちは、米国の爆撃機12機と戦闘機1機を撃墜した。ソ連側に損失はなかった。この空中戦に参加したソ連のパイロットたちは、ソ連の戦闘機には飛行禁止とされていた海岸線に、パニックに陥った米国人が密集しなかったら、米空軍の損失はさらに大きかっただろうと振り返っている。一方で米国側は後に、B-29戦闘機27機が喪失したと発表した。損傷によってさらに15機が空港までたどり着けなかったとみられる。この戦いの後、米空軍では、命を落としたイロットたちを悼んで1週間の服喪が宣言された。そして4月12日は、「ブラックサーズデー(暗黒の木曜日)」と呼ばれるようになった。
しかし1951年10月末、米国はさらに深刻な損失を被った。米空軍で「ブラック・チューズデー(暗黒の火曜日)」と呼ばれるようになった10月23日、米国の爆撃機、攻撃機、戦闘機は、北朝鮮の南市(ナムシ)飛行場を数回にわたって攻撃しようとした。複数の情報筋によると、米国側の喪失数は、B-29だけでも3-12機。ソ連側は1機が撃墜され、2機がわずかな損傷を受けた。
10月24日と27日には激しい空中戦が繰り広げられた。米国の損失は莫大で、米マスコミは当時の出来事を「ブラック・ウィーク(暗黒の1週間)」と報じた。
これらの戦いは、空中戦における本質的な変化を意味した。米国の戦略航空部隊は、完全に崩壊したのだ。ソ連のパイロットたちは、米国に昼間の爆撃を断念させた。これによって、米国の戦闘効果は激減した。
朝鮮戦争の3年間で、B-29爆撃機およそ170機が撃墜された。すなわち米国は、東南アジア戦域にいた自国の戦略航空部隊の主力を失ったということだ。なお米空軍の喪失数は、合わせて1525機だった。そのうちの1099機は、航空機によって撃墜された。ソ連側の損失は、MiG-15ジェット戦闘機とLa-11レシプロ戦闘機の319機。朝鮮上空では、120人のソ連パイロットが亡くなった。