これまでと比べて国内でウクライナ語の新聞や雑誌の数が減ってしまったことが分かったのだ。あそこでは事実上ロシア語なしには、一本のテレビやラジオ番組もありえない。もちろん、学校でウクライナ語が自分の地位を勝ち取った事実は、一見喜ぶべきだろう。しかし、これには、興味ある刺激的ニュアンスがある。つまりウクライナの政治家が言うところの占領されたドンバスやクリミアの学校は、考慮に入っていないのだ。その結果、成績表の評価に例えるなら2点の落第点で、言語の状態は、よい場合でも変わらず、ひどい場合は、学校でも、ウクライナ語を常に使おうとは努めていない。教師達は本音のところ、彼らの生徒達が大人になって、やはりより必要なのはロシア語だろうと、感じている。なぜならカフェに行ってもロシア語が分からなければ、どうにもならない。ウクライナ語のメニューがどこにでもあるわけでは決してないからだ。
主要な芸術領域で言えば、例えば映画の吹き替えが行われていない。ロシア語映画は減ったが、これは欧州あるいは米国の映画のウクライナ語への吹き替え版が増えたからではなく、ロシアの映画作品の買付けが単に減ったことによるものだ。しかし何語で映画を見、何語で本あるいは雑誌を読むかウクライナ市民は選択できるが、テレビの前に座る場合には、ウクライナの人々は、あるユニークな世界に陥る。文字通り各番組の中では、政治ショーから料理番組に至るまでウクライナ語とロシア語が完全に混じりあっているのである。もちろん、一つの番組の中で、こうした言語のカクテル状態を満つことができる国など一つもない事は、誇るべき事かもしれない。だがウクライナの状況はひどく異なっている。国家的プライドを全く嘲笑しているかのように、ロシアの連続ドラマあるいはソ連時代のロシア語映画において、ウクライナ語の字幕が極めて小さいのである。
報告書の作成者達は、そうした悲しい結論の後、当局に対し、ウクライナ語使用拡大のプログラムを講じ、方法を提案得るよう求めるべきだと思われる。しかし彼らは、多くの国民にとって生存するための言語として残っている言葉と戦う事が、いかに愚かしく展望のない事かを、おそらく自分達自身、非常に良く理解している。それゆえ、つまるところクリミアでのウクライナ語の状況に激しい非難を浴びせているのだ。彼ら自身、まさにそうする事でロシア語政策に賛成しているのだという事を、分かっていない。なぜなら、ウクライナ語が国語で無いような国だからこそ、それに特別の注意を払われるのであり、やはりそれが必要なのだ。つまりウクライナは、一つだけの共通言語を持った国家とは違うのである。