ワシントンの公式な立場によれば、広島・長崎原爆は日本の降伏をはやめ、数十万もの米兵・日本国民の命を守るための措置だった。しかし一部の学者、たとえば日系米国人歴史家のツヨシ・ハセガワ氏などは、より客観的な視点を取っている。そう語るのはロシア科学アカデミー極東研究所日本研究室のワレリイ・キスタノフ氏だ。
「ツヨシ・ハセガワは「敵との競争」という著書で、ポツダム宣言受諾と日本の無条件降伏は原爆投下でなくソ連参戦に強いられたものだ、としている。その根拠として、ソ連参戦がモスクワの仲介によって戦争を終結させるという日本の希望に終止符を打った、という点を挙げる。周知のように、日本は主に米国との交渉における仲介者としてソ連を利用しようとしていた。降伏するにしても、より有利な条件で降伏できるように、である。モスクワ参戦はその希望を葬り去った。ロンドン王立軍事博物館の歴史家ケリー・チェルメン氏もまた、原爆投下で広島において14万、長崎において8万人が死亡したにもかかわらず、日本の軍部は、もし満州と朝鮮さえ管理できれば、日本は連合国側の本土上陸を撃退できると考えていた。満州と朝鮮には戦争継続のための必要資源が全てあった。しかしそれこそソ連参戦と満州侵攻でこの希望がついえた。これら学者らには、原爆投下は不要であったとはっきり見えている。太平洋艦隊司令官を含む米軍将官の一部が原爆投下に反対したとの情報もあるくらいだ。しかし結局、トルーマンとその補佐官らは日本の諸都市を原爆するという歴史的決定をとった」
トルーマンとその補佐官らには、「日本の降伏」とは全く異なる狙いがあった。当時すでに米ソ冷戦の最初の兆候があった。戦争末期の原爆投下は冷戦における米国の最初の作戦であったと見なせる。そうキスタノフ氏。
「原爆投下の本当の狙いはソ連に対し、米国がいまや前代未聞の破壊力を持っているのだとデモンストレーションすることだった。朝日新聞7月2日付け記事も、トルーマンをして原爆投下を決意せしめた動機がかくのごとくであったことを支持する。米国の学者クズニク氏へのインタビューだった。インタビュアーが単刀直入に、原爆の本当の狙いは何だったのか?と問うと、トルーマンは、ロシアが参戦し、ヤルタ合意で約束されたもの、すなわち譲歩を手に入れる前に、戦争を終わらせようとしたのだ、との答えが返った。ヤルタ合意の譲歩とは、ソ連に南サハリンとクリル全体を譲渡する、というものだった。トルーマンは、より早く日本が降伏すれば、スターリンにサハリンもクリルも与えなくて済む、と考えた。しかし周知のように、願いは叶えられなかった。日本の軍部は原爆の後でさえ、戦争継続に意欲を見せた。米国は日本のほかの都市にさらなる原爆を落とすことも考えていたくらいだ。しかしソ連が参戦を表明し、満州で軍事行動を開始すると、日本は降伏を強いられた。そしてアーカイブが解禁されるほどに、この客観的視点がより広く公衆に知られるようになっていく。専門家だけでなく、各国の社会が。日本もまたしかりだ」
日本は戦後長期間、事実上日本に占領され、経済的に依存してきた。西欧の戦後復興のためのマーシャルプランに似たものが、日本のためにも作られた。そのおかげで、日本の奇跡の経済復興が成ったのだ。ワシントンとしては、それは願ったり叶ったりだった。米国は日本を早急に戦後の荒廃から立ち直らせ、反共の防波堤を再構築する必要があった。日本は米国の軍事・政治両面における最重要同盟国となった。そんな中で、日米の政治家らにとって、誰が広島・長崎に原爆を落としたかということを思い出すことが「具合が悪く」なった。原爆がらみの追悼式典は毎年行われるが、日本人の意識からは、しだいに、誰が犯罪を行ったのかという記憶が拭い去られていった。これは確実に日米関係にはプラスとなったのである。