リアノーボスチ通信のクセーニャ・ナカ記者は、被爆の記憶を語り継ぐ坪井直(つぼいすなお)さんにインタビューを行なった。坪井さんは日本原水爆被害者団体協議会代表委員で、広島県原水爆被害者団体協議会理事長を務めておられる。
「私が原爆を受けたのはここ。市役所がありますが、爆心地から1キロと少し離れたところです。当時、理化学の大学生で、8時過ぎ、食堂で朝食をとり、学校へ行こうという途中でした。
食堂を出ようとしたら下級生が3人入ってきて、先輩一緒に食べましょうという。でも私は、いや、学校に行くから、昼また会おうといって食堂を出た。原爆が落ちたのが8時15分。その3人は8月6日の朝8時15分、朝ごはんを食べながら、ばしゃーん、食堂の建物に潰されて亡くなったんです。爆心地に近かったから、この食堂で助かった人は1人もいない。私は大学にむかっていましたが、もしこれが爆心地に向かっていたら、もう助からなかったはずです。
こっちを向いて歩いているときにピカッと光った。私は目と耳をふさいで倒れました。衝撃波か爆風かで目が飛び出るんですよ。耳は鼓膜が全部破れて、ぜんぜん聞こえなくなる。だから目と耳を守る練習を避難訓練をするときは、幼稚園からみんなするんです。
私もとっさにこれをやろうとした。ところが手でふさぐ前にピカッと光った。それと同時にどーんと飛ばされた。アスファルトの歩道を通っていた私は10何メートルくらい飛ばされた。だから血だらけです。普段から爆撃でガラスの破片を避けるためにみんな、軍隊の命令で長袖を着ていたのです。
とにかく吹き飛ばされ、意識をなくしました。しばらくして気がついたら、これはひどい。ここから先が鮮血です。黒こげで無くなっているのですから。その赤い血が三本の指からぽとりぽとりと落ちている。よく見たらワイシャツもない、ズボンも膝から下は原爆の熱線で焼けてない。おかしいな。腰のあたりにミミズが入っているのかと思ったら、そうではない。血管が破れて、足まで流れていた。
その時、原爆を知りませんからね。しまった、私を狙ってやられたんだと思ったんです。私は20歳の軍国少年でしたから、米国よ、よくもやったな。覚えとけ。この仇は絶対討つぞと思ったんですよ。そういう気持ちがあっても、ふわっと落ち込んでしまったんです。俺もここで死ぬのかなと思いました。だがしばらくしても死にそうにない。顔の皮はずるずるで血だらけです。それが生きられるような感じがしてきた。
爆風でやられて、爆心地500メートルあたりは家が飛ばされ、屋根が土の上にそのまま立っていました。その屋根の下から50くらいのおばさんが助けてくださいと叫んでいる。私は自分も血だらけですが、若いですから、行って助けてあげようとしました。「どこですか? どこですか?」と呼びますが、姿が見えない。ブルドーザーではないですから、1人で屋根を持ち上げるわけにはいかない。「もう少し待ってていてよ。加勢を呼んできますから、もう少しがんばっていて」と言い残して行ったんです。
そうする中でいろんな光景を目にしたんです。女学生(現在の中学2年生くらい)が歩いていますが、それが熱線で焼けてずるずる。その彼女が、忘れません。右の目がぽろんと出ている。これは薬でも医者にかかっても助からんと思いました。そうかとおもうと、30歳代の男性がガラスが突き刺さったまま、血だらけのまま歩いている。三歩四歩行ったら、歩けず座り込んでしまいました。また30歳くらいのご婦人が、腹の中の腸が出ているのを屈みながら、手で押さえながら歩いているんですが、指の間から腸が出ているんですよ。
こりゃいかん。生きられるわけが無いと思いました。助けることもできなかったんですよ。そんなのがいっぱいあってね。家に足がはさまって動けないのに、家に火が移って逃げられないという人も見ました。焼けて、どこに顔があるのかもわからない人。これは人間か? 足も手もない。死んでころがっている。そんなのばっかりです。
だからね。資料館でもあまりにむごいからそんなものは出さない。子どもに見せられんですからね。ですが本当はこんなものではない。資料館の死体はせいぜい2人かそこらでしょう。本当は死体が何百、何千ところがっている。牛か馬か人か分からないような死体が。
それでね、川にいったらみんな焼けどして熱いでしょう。痛いから飛び込んでいるんです。でも3時間か4時間かしたら体がぶぶぶっと膨れてしまう。その死体が1キロ先の島に流れ着いたという証拠もあります。
私は先ほどのおばさんのところに戻るんです。それでみんなに「助けましょう」というんですが、みんな逃げてしまう。それはね、私がお化けみたいな姿になっていたからなんです。耳なんかちぎれとったとそうです。見てください。69年この姿で生きています。どこに出てもすぐわかる。ああ、原爆にやられたんか、と。
私は全身火傷で、本当は川に飛び込みたかったですが、人がいっぱいでできんかった。それで助かったんです。泳げない人がすぐにつかみかかって、共に死んだでしょうからね。
大学に行けば何とかなるかと思っていきましたが、治療できる人などいない。木陰に休んでいる人がいるか、と見たら、死んでいる。医務室に行ったら、薬が全部ひっくり返って何が何だが分からない。仕方ないから、親戚のおばあさんのところに行こうと思った。
さっきの屋根の下の人のところに戻りますがね。もう火の手が回って助けらることができなかった。その人は声は聞いとるが、姿は見えない。姿を見ていたら、つらくてつらくて、夜寝ておっても死ぬまで夢にでも出てくるでしょう。
それでね、親戚のおばあさんのところにたどり着くと、家はつぶれているんです。でもおばあさんが庭にいる。もう嬉しくてね。「おばあさん、よかった、よかった! 助かったんですね」と大声で叫ぶと、おばさんが振り返って、「あなたはどなたですか」と聞いたんです。「直です」というと、「直さん? 直さんはもうちょっとスマートでしゃんとした人よ。あなたはぶよぶよでしょうが」という。
何度言っても信じてもらえない。大学もだめ、この先行くところもない。でもおばあさんに迷惑をかけてもいけないから、もう去ろうと思い、独り言で「2階のピアノのところでけいこさんとよく騒いだもんでしたね」といったんです。それを聞いたおばあさんが驚いて、「けいこを知っている。2階のことを知っている。あなたは本当に直さんかい?」と言って、こっちに来なさいと、どこからか治療薬を探してきてくれたんです。
でもおばあさんが私の背中を見て、こりゃ大変だとしきりにいうんです。私は見えませんからね。ただこのままいて、迷惑になって、おばあさんまで死んでしまったらいけないと思ったんです。それで「私は大学に行かなければなりません」と言い訳して、そこを離れようとしました。「おばあさん、火の手が回っている。逃げるなら南に逃げなさいよ。このまま行けば港がある」と言いますと、おばあさんが私をつかんで離さんのです。ですからそのおばあさんを私はぱーんと蹴ったんです。おばあさんは飛ばされ、その隙に私は逃げた。
逃げたんですが、どこにいっていいかわからん。歩きながら、この頃になると思いましたよ。不思議な爆弾を落としたなと。そうしていると、おばさんたちが話しているのが聞こえた。みゆき橋というところに治療所ができたそうだと。そこまで200メートルくらいだから、頑張って行こうと思った。ところが潰れている家の陰で休みながら、今の子どもなら5分もかからないところなのですが1時間以上かかるんです。
治療所といっても何もできない。これはだめだと思いました。私は大学の在学証はいつも持っていましたが、それも焼けて無くなりましたから、自分を証明するものがない。私は動けないまま、診療所の歩道に座り込んで石を拾い、「坪井はここに死す」と書いたんですよ。
20歳ですから、よく覚えていますよ。俺はもうだめだ。在学証明もない。いつ死ぬかと思っていたら、そこに軽トラがやってきた。「おーい、若い男だけ乗れ」という。子どもも女性もだめ。男性も年寄りはだめ。武器を持てる若いのしかだめだということだったんですね。
これが軍国主義です。「私はどうして助けてくれんのか?」といってもだめ。戦争に勝つかだけですから。戦える人かどうかで人間を決めるのです。彼らは。今後戦争があるかどうかわかりませんがね。人間は戦争で勝つための道具なんです。戦争とはそういうものなんです。いいですか?
私は腹が立って腹が立って仕方ない。どうしてみんな助けてやらんのかと思った。でも、私が自分で来れたのはここまででした。後は全部人に助けられた。負われたりね、自分では歩けない、立つこともできないからです。
ここでね、あまりにもむごいことが起きたんです。あまりむごいのでここ3年話したことがありませんでした。10人しか乗れない軽トラの荷台に小学校2年生の女の子が自分も助けてもらいたいと思って足を掛けたんです。3年生以上はみんな疎開していますから、この子は2年生に違いありません。それを見た軍人が運転席から降りて、大きな声で降りろとどなった。
日ごろから軍人には歯向かってはいけないと叩き込まれていますから、この子はぱっと飛び降りたんです。わぁーんと大声で泣きながら、反射的に火の燃え盛るほうへと歩き始めた。私は動くことも出来ません。その子の後姿に向かってただ、「火の燃える方にいくなよ」と大声で繰り返すのがやっとでした。
どんな人にも夢があったはずです。大きくなったらこうなりたい、どんなことがしたいという夢が。それがペしゃんと潰されてしまった。誰が命を保障するのですか? 国は保障しません。助けてはくれませんよ。
かわいそうでかわいそうで言いようがない。それを見ていて、助けることもできなかった。だからね。この子は死ぬまで私の苦しみです。これを逃れることはできん。
警防団のトラックで乗せられていきますが、夏で暑いでしょう。焼けて、裸なんだからつらくてたまらない。そんな時、私より少し元気な人が立って、影を作ってくれたんです。有難くて、有難くて、これは涙以上です。名前を聞いても教えてくれない。「名前なんぞいい。お前が早く元気になって、年寄りを救え」といわれた。そんな人たちに助けられたんです。
そうして暁部隊というところに連れて行かれた。何万という人がいました。そこで私は偶然、友達を見つけたんです。その友達がここから4キロ先の似島に野戦病院があるから、そこに行って治療してもらおうといったんです。でも私はもう覚悟が出来ていますから、その久本にいったんです。「お前がもし生き延びることができたなら、俺の分も敵をやっつけてくれ。それが俺の最後の最後の願いじゃ。」そして私は行かれないと言ったんです。
すると久本は「坪井、何を言うか。お前を見捨てて行けるか。さぁ、こい!」と私を背負ってくれたんですよ。背負ってくれたから私は今生きているんですよ。自分も焼けどを負っているのに。その友情、親切心に胸が一杯になりましてね。とにかく、40分の間、「久本、ありがとう。久本、ありがとう」と繰り返し続けました。
とにかく着きますと桟橋に若い人がいて、歩けない私を担架に乗せてくれた。久本くんが水やむすびを運んでくれたから、私は今生きているんです。自分では取りにいけない。軍隊は運んじゃくれませんよ。人手がないんだから。そこにいた人たちは3日間、一滴の水も飲まず、ご飯も食べず、死んでいったんです。それを思ったら、可哀相でならんよ。思い出す、しゃべるほうがつらいです。
似島は軍隊の島ですから、軍人しかおいておけん。ほかは宮島へ移せという軍令が下っていたそうです。ただ私たちのようなのは3日4日置いておけばどうせ死ぬから、運び出す手間を掛けるなという命令がでていたのです。私のことは最初の頃におじさんとお母さんに連絡が入っていたので、二人は私を見つけ出そうと来てくれた。お母さんは死体もみな、一体一体持ち上げて「直じゃないか」と調べながら探してくれたんです。
もうたくさんの人がいますから見つけ出すことができない。おじさんがお母さんに言ったんです。「もうだめだから、家に帰ろう」と。そのとき、おじさんの科白によると、お母さんは気が狂ったんじゃないかと思うような大声で病室の入り口で「直!すなおはおらんか!」と叫んだそうです。それでも答えが無い。そして11番目の部屋で同じように大声で呼び、私を見つけるんです。私は鼓膜がやられて聞こえません。でもみんなの話ですと、私は小さな声で「ここにおるよぉ」と手を挙げたんだそうです。お母さんの声が聞こえない私の耳の鼓膜に響いたんでしょう。そして私は船に乗せられて、広島に連れ帰られました。もしお母さんの声が無ければ、私はここで話をすることもなかったわけです。
それから終戦も知らず、9月25日まで意識が戻らなかった。医者は毎日、「死にます」と繰り返したそうです。原爆など誰も経験していませんでしたからね。放っておかれたら死んでいたはずです。
それからはいろいろな苦しみがありました。原爆を受けてから10年、18年、23年、市民病院でも大学病院でも「今晩だめだから、親戚を集めなさい」といわれました。これが原爆病というものです。
私の一生は波乱万丈。なんで90まで生きたのかもわかりませんよ。今を大事にしてね。二度と、皆さん方が被爆者になるようなことがあってはならんと思って出かけてお話しているんです。」