「北方領土」または南クリルにおける国境線画定の問題によせて
上智大学外国語学部ロシア語学科教授・上野俊彦
「北方領土」問題は第2次世界大戦の結果として生起した問題であるので、第2次世界大戦当時のことから議論をスタートさせる。
第2次世界大戦初期の1941年8月14日、米英両国は大西洋憲章に調印し、ソ連も同年9月24日に「ソ連政府宣言」により、これに加わった。この大西洋憲章は、第1条で「両国は領土的その他の増大を求めない」こと、第2条で「両国は関係国民の自由に表明する希望と一致しない領土的変更が行われることを欲しない」ことを宣言している。これを一般に「領土不拡大の原則」という。
しかし、1945年2月11日、この3か国の首脳が調印したヤルタ協定の第3条は、「千島列島はソ連に引き渡される」と規定している。この規定は、明らかに大西洋憲章の領土不拡大の原則に違反している。なぜなら、千島列島は1855年2月7日に調印された下田条約と1875年5月7日に調印された樺太・千島交換条約によって、平和裏に日本領土となった地域だからである。ちなみに、下田条約によって、エトロフ島とその北にあるウルップ島とのあいだに日露間の国境線が引かれ、ハボマイ諸島、シコタン島、クナシリ島、エトロフ島が日本領であること、サハリンは日露どちらの領土ともされず日露混住の地とすることが決まり、樺太・千島交換条約によって、千島列島のうち、下田条約によって日本領とならなかったウルップ島からシュムシュ島までの18島が日本領になること、他方で、サハリンはロシア領となることが決まったのである。
大西洋憲章の領土不拡大の原則に違反しているにもかかわらず、ヤルタ協定において千島列島をソ連に引き渡すことが合意されたのは、米国が、自国軍隊の損失をなるべく少なくするためにはソ連の対日参戦が不可欠であると考え、ソ連の対日参戦を引き出すためにはソ連に何らかの見返りを与える必要があると考えたからであろう。
ところで、ヤルタ協定の第2条は、「1904年の日本の背信的攻撃により侵害されたロシアの旧権利は以下の通り回復される」とし、そのa)項で、「サハリン南部およびこれに隣接するいっさいの島嶼はソ連に返還される」と規定している。このサハリンの返還が、ソ連の対日参戦の見返りにならないことは、当時のソ連が、サハリン南部はもともとロシア領であると考えていたからであろう。実際、サハリンは「返還」されるのに対して、千島列島は「引き渡される」という用語が使われていて、両者の位置づけが異なることは、米英ソ3か国にはわかっていたはずである。
サハリンおよび千島列島は、その後、1951年9月8日に調印されたサンフランシスコ平和条約第2条(c)項が、「日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに隣接する諸島に対する全ての権利、権原及び請求権を放棄する」と規定したことによって、日本領土ではなくなった。ただし、サンフランシスコ平和条約においては、日本が放棄したサハリンおよび千島列島がソ連領であることは明記されなかった。そのことが、ソ連がこのサンフランシスコ平和条約に調印しなかった理由の一つであるとされている。この第2条(c)項の千島列島の放棄を規定した部分は、ヤルタ協定第3条と同様、大西洋憲章の領土不拡大の原則に違反していると考えられる。しかしながら、第2次世界大戦を開始し、アジア太平洋諸国を侵略して大きな被害をもたらした日本は、その責任を負って、日本の領土について「日本国の主権は本州、北海道、九州および四国、ならびにわれらの決定する諸小島に局限される」と規定したポツダム宣言を受け入れており、サンフランシスコ平和条約第2条(c)項の規定を、大西洋憲章の領土不拡大の原則を持ち出して批判できる立場にはなかった。
1951年10月のサンフランシスコ平和条約を批准するための日本の国会では、サンフランシスコ平和条約第2条(c)項のいう千島列島の範囲が問題となったが、政府委員の西村熊雄外務省条約局長は、「南千島[クナシリ島とエトロフ島のこと-引用者]というものが千島列島でないという反対解釈は生れない」と答弁し、サンフランシスコ平和条約で放棄した千島列島にはクナシリ島とエトロフ島が含まれるものと考えていることを示した。他方、ハボマイ諸島とシコタン島は千島列島には含まれず、北海道の一部であるという解釈を示した。したがって、当時の国会決議等に示された日本の領土返還要求は、ソ連に対するものとしては、ハボマイ諸島とシコタン島の返還要求に限られていた。
ところが、最終的に1956年10月19日の日ソ共同宣言の調印に至る、平和条約締結交渉の過程において、当初、日本側全権の鳩山一郎内閣総理大臣はハボマイ諸島とシコタン島の返還を条件として平和条約を締結する方針であったが、その方針に反対する政府・与党内の勢力および米国政府の影響のもとで、日本側は、交渉の途中で、クナシリ島とエトロフ島の返還要求も加えた。このため平和条約締結は頓挫した。そして、さらに1961年10月3日、衆議院予算委員会の質疑において、池田勇人内閣総理大臣が、それまでの千島列島の範囲についての解釈を変更し、クナシリ島とエトロフ島はサンフランシスコ平和条約で放棄した千島列島には含まれないと主張し、これ以降、日本政府は、ハボマイ諸島、シコタン島のみならず、クナシリ島、エトロフ島の返還をも公然と要求し始めた。そして、この頃から、クナシリ島とエトロフ島を指すものとして使われてきた「南千島」という用語が使われなくなり、その代わりに「北方領土」という用語が使われ始めたのである。
現在、日本政府は、ロシアに対して、ハボマイ諸島、シコタン島、クナシリ島、エトロフ島の返還を求めているが、その返還要求が、サンフランシスコ平和条約第2条(c)項の千島列島の放棄を定めた規定と矛盾していないことを示すために、クナシリ島とエトロフ島は、サンフランシスコ平和条約で放棄した千島列島には含まれないと主張している。しかし、この主張は、1951年にサンフランシスコ平和条約に調印したときの日本を含む調印国の千島列島の範囲についての解釈と異なるばかりでなく、第2次世界大戦前から1960年頃まで日本国内で一般に考えられてきた千島列島の範囲についての解釈とも異なるものであり、その点がこの主張の弱点である。
領土問題について、日本政府が、基本とすべき国際条約は、第2次世界大戦の終結を確認し、日本が国際社会に復帰することを認めたサンフランシスコ平和条約である。サンフランシスコ平和条約第2条(c)項についてどのような不満があろうとも、これを受け入れなければ、戦後の日本の立場を全面的に否定することとなり、非現実的である。そして、その第2条(c)項は千島列島の放棄を定めており、この千島列島にはクナシリ島とエトロフ島が含まれていると考えるのが妥当な解釈である。しかし、この解釈を受け入れれば、日本は、サンフランシスコ平和条約の調印当時の国会決議が示すように、ハボマイ諸島とシコタン島の返還要求しかできない。
他方で、領土不拡大の原則からすれば、少なくともハボマイ諸島、シコタン島、クナシリ島、エトロフ島は日本の領土のはずであるにもかかわらず、ソ連は不当にも日本から領土を奪ったという考え方が、冷戦期を通じて日本国内でくすぶり続けてきたし、日本政府もこうした考え方を支持してきた。
これまでの交渉の経緯から考えると、日本政府が、今後の平和条約締結交渉において日露間の国境線をどこに引くのかということを議論する場合、クナシリ島とエトロフ島を議論の対象からはずすことはありえないだろう。そして、サンフランシスコ平和条約の第2条(c)項が領土不拡大の原則に反していることを考慮すれば、クナシリ島とエトロフ島を含めて国境線をどこに引くかを議論することは国際法的に考えても妥当であり、この二島を含めた議論の中で日露双方が互いに同じ程度に納得できるような妥協点を見いだすことは、日露双方の利益になることだと思われる。
第2次世界大戦中に起きたことについて、日露両国民が言いたいことはたくさんあるだろう。しかし、日露間の問題を解決するためには、日露両国民は、感情を排して、これまでの日露間の条約や歴史的経緯について、客観的に考えなければならない。
1945年から現在までの70年の歳月は決して短くはない。いまやこれらの島々は、ロシア国民の島であり、故郷である。大西洋憲章第2条の「両国は関係国民の自由に表明する希望と一致しない領土的変更が行われることを欲しない」という規定は、70年前には日本国民が主張することができたが、いまやロシア国民がこれを主張することができる。
日露両政府がすべきことは、一日でも早くこれらの地域における日露間の国境線を画定することである。国境は人やモノの移動を妨げるものではない。国境線が画定していないからこそ、人やモノが自由に行き来できないという不便が生じている。日本の北海道東部とロシアの南クリル地区がともに発展していくためには、一日でも早くこの地域の国境線を画定することが必要である。クナシリ島からエトロフ島までのどこに国境線を引くかということは、北海道東部と南クリル地区がともに発展し、日露間の友好関係が深まるのであれば、それほど重要ではないように思われる。日露双方がともに妥協を拒み少しも解決の糸口が掴めないという現状から、早く脱却してほしい。