体で、ロシアとトルコは351年(1568-1918年)の長きにわたり戦争していた。この間両国が実際に交戦状態にあったのは69年である。むろんこれほど重い歴史的記録の重みは両国関係の今日にも刻印を残さないではいない。一部の対立点は未解決のまま残されている。
第一次世界大戦中、ロシアとオスマン帝国は反対陣営にいた。ロシアは協商側、トルコは同盟側。1914年末、トルコはロシア侵攻を開始。しかし壊滅的敗北を喫する。トルコ軍人の大半が戦場で死亡し、死ぬほどの寒さに凍え、捕虜になった。トルコとの戦争の開始はロシアの多くの人に歓呼をもって迎えられた。地中海への無障害の出口となるコンスタンチノープルおよびボスフォラス海峡、ダーダネルス海峡を獲得するという古くからの夢が叶うのでは、との期待があったのだ。戦争翼賛の新聞各紙は愛国主義的カリカチュアを発表し、オスマン帝国の第一次世界大戦参戦を嘲笑し、ロシア兵士の軍事力の強さを強調した。
第二次世界大戦後の期間はロシアとトルコそれぞれの中東方面の地域政策が活発化したことを特徴としている。ここで起こった対立は、冷戦の論理や歴史的に形成された地域における両国の利害に屈した。トルコ政府は「共産主義抑止」という課題を履行する「ムスリム陣営」の組織に関する注力を行なった。そして、西側大国の政策を抑制するだろう各国の運動体を弾圧した。米国政権のトルコの軍事産業ポテンシャル強化への動きは論理的には1952年のトルコのNATO加盟によって論理的に終結した。トルコ加盟賛成派は、西側にはトルコがソビエトの地域への侵攻を阻むため同盟国として必要だ、と主張した。1973年末以降、エジプトの新米化とともに、シリアが中東におけるソ連の最重要同盟国、基本的被支援国となった。
2000年代初頭、徐々に、トルコが地域で独自の国益を追求していることが明らかになった。トルコは反テロ連合の一員ではあるが、同時に「イスラム国(IS)」に深刻な損害を与えうる行動を全くとらない。もしかすると、歴史的経験と客観的現実を根拠に、古くからの敵を仮想の「同盟国」として見直す時期が来ているのかもしれない。