菅野さんは福島第1原発からおよそ40キロの場所に住んでいた。菅野さんは2011年6月、経済的および心理的な負担に耐えられず、首をつって自殺した。菅野さんは自宅の小屋に「原発さえなければ」、「残った酪農家は原発に負けないで頑張って下さい」、「仕事をする気力をなくしました」などと書き残していた。菅野さんにとって、生乳から放射性物質が検出され、出荷が停止されたことが深刻な心的外傷となった。牛の世話をし、地面に流すしかない牛乳を搾乳し続けるのは、菅野さんにとって辛い日々となり、生きる気力を奪った。また原発事故後に、フィリピン人である菅野さんの妻は、2人の子供と一緒に放射線の影響を懸念してフィリピンへ一時帰国していた。
菅野さんの遺族は東京電力に対して1億2000万円の損害賠償を求める訴訟を起こしていたが、東京電力が数千万円を支払うことで和解が成立した。
菅野さんの死亡は、福島第1原発事故と直接関連した最初の自殺として、社会の大きな反応を呼んだ。