「私は生まれはザバイカリエ(バイカル湖東岸地域)でそこからはわずか400キロで中国です。そこに暮らしていた幼年時代、戦争が行なわれていました。日本の関東軍も私たちの町に近い場所に駐屯していたのです。
関東軍といえばあの頃はドイツの同盟国の軍でした。ですから私たちの町では空襲を恐れ、中の様子がわからないように窓ガラスを黒く覆っていました。
でも関東軍はすぐ近くに駐屯していたのですが、そこからの砲撃は一切ありませんでした。400キロといったらそうたいした距離ではありません。これは今、ロシアと隣のウクライナとの間で起きていることを見ると、これは今、ロシアと隣のウクライナとの間で起きていることを見ると、私にはよくわかるんです。そこではどれだけの犠牲がでていることでしょうか。ですから関東軍が私たちのいる場所に撃ってこなかったというのは、これは驚くべきことだと思うんです。だってですよ。子どもの頃、街にはソ連軍の将軍や元帥が結構いましたからね。そこには何らかの軍事課題を処理するために来ていたのだと思います。それでもこれだけ近いところに関東軍がいたにもかからず、空襲の怖い思いを味合わずに済みました。今でも日本人は非常に好戦的だったという話は今でも聞きますからね。
母は音楽家でチタで子どもたちに音楽を教えていました。うちにはグランドピアノ、スタンドピアノ、ヴァイオリンがありましてね。父もあらゆる弦楽器を弾きましたよ。合唱の指揮者をしてましてね。うちは木造建築でした。
その隣に日本人捕虜たちが新しい家を建てていたんです。それで日本人たちは表の通りに出るのによくうちの中庭を通過していたんです。うちの窓はいつも開けっぱなしでしたから、ある日本人はいつも通りがけに母に挨拶をしていました。母も子どもを相手にしながら、いつもその方に挨拶を返していましたね。母はいつもみんなに親切にしていました。
日本と戦争というイメージはその後のソローミン氏の人生にも顔をのぞかせた。
ソローミン氏:「1990年代、マールィ劇場が日本に公演にいったときのことです。電話がかかってきて、芝居にあるプロデューサーがお見えになるから、といわれました。ものすごく裕福な方だと。
やがて年配の方が見えて、私たちはどうぞ、こちらへと恭しく招き入れました。その方は通訳を連れておられました。テーブルには数種の果物がおいてありまして、その中にリンゴがあったんです。
すると突然、その方はロシア語でしゃべりはじめました。そしてどうしてこれを選んだのか、ぴかぴかとしたものより、なぜこのリンゴが良いのかについて、語り始めたのです。ピカピカしたものは人工的なものに近い。このりんごには斑点がある。ということは本物なのだと。私たちはもちろん彼の言う事がもっともだと同意しましたが、それよりも驚いて、いったいどこでこんな見事なロシア語を身につけたのですかと尋ねました。
なんとこのかたはサハリンで、捕虜に捕られた時代にロシア語を習得されていたのです。それ以来、ロシア語を忘れることなく、機会があるごとにロシア語で人と交わろうとされてこられたのでした。
こんなことから思うのです。あのときのリンゴのように人生の様々な時期に我々の国どおしの関係には互いの理解が及ばない斑点のようなものが生じるときがあると。大事なのは対話があるということなんです。これを私たちに教えてくれているのが歴史であるし、私たち自身の人生ではないでしょうか。」