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ペレストロイカ時代の雰囲気:パンを求めての行列とあの時代の光景
ペレストロイカ時代の雰囲気:パンを求めての行列とあの時代の光景
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1985年、当時のミハイル・ゴルバチョフソ連共産党中央委員会書記長は、レニングラード市党委員会の活動家達と会った際「同志の皆さん、私達皆は、おそらく立て直し(ペレストロイカ)をする必要がある」と発言した。こうして世界中は、ペレストロイカという言葉を知り、それは、ソ連で始まった新しい時代のスローガンとなった。 2016年8月21日, Sputnik 日本
2016-08-21T15:00+0900
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写真, ロシア
ペレストロイカ時代の雰囲気:パンを求めての行列とあの時代の光景
2016年8月21日, 15:00 (更新: 2022年4月27日, 22:15) 1985年、当時のミハイル・ゴルバチョフソ連共産党中央委員会書記長は、レニングラード市党委員会の活動家達と会った際「同志の皆さん、私達皆は、おそらく立て直し(ペレストロイカ)をする必要がある」と発言した。こうして世界中は、ペレストロイカという言葉を知り、それは、ソ連で始まった新しい時代のスローガンとなった。

ソ連のピロシキもおいしかったが、それでも人々はピザの第1号店に行列した。

ソ連共産党第22回党大会でミハイル・ゴルバチョフ書記長は、グラースナスチ(情報公性)の拡大を原則的問題と呼び「グラースナスチなくして、民主化はあり得ず、大衆の政治的創造性の拡大や彼らの統治への参加もあり得ない」と述べた。

1988年、国連総会でゴルバチョフ書記長は演説に立ち「武力の使用あるいは武力を使った威嚇は、もはや対外政策の道具ではありえない」と指摘した。

ペレストロイカの時代、いわゆる「子供外交」が人気となった。例えば1988年、米国ロスアンゼルスの9歳の少年、ブラッド・コレア君は「平和のメッセージ」を持って、モスクワ、レニングラードそしてキエフを訪れた。

1990年5月30日から6月5日まで、ソ連邦の初代大統領となったゴルバチョフ氏の米国公式訪問が行われた。

グラースノスチ政策と共に、それまで禁止されていた、グロスマンやプラトーノフ,ザミャーチンやブルガーコフ、そしてパステルナークのほぼすべての作品が発表された。

1985年、ソ連の歴史において恒例化していた反アルコール・キャンペーン、いわゆる「ゴルバチョフ禁酒令」が発表された。キャンペーンには、集中的な節酒キャンパーンが伴った。

1979年、モスクワ五輪の一年前、モスクワのキオスクで「ペプシ・コーラ」の一般販売が開始された。

1987年⒓月8日、ワシントンで、ソ米首脳会談が実施され、ゴルバチョフ書記長とレーガン大統領が、中短距離ミサイル廃絶に向けた、期限を設けない条約に調印した。

1990年1月31日、モスクワ・プーシキン広場に「マクドナルド」第1号店がオープン。開店初日には、3万人が訪れたが、これは「マクドナルド」史上、空前の記録となった。1990年代の「マクドナルド」の行列は、現在に至るまで「伝説」として語り伝えられている。

ペレストロイカ時代、ソ連のシンボルは、新しい感覚で表現され、大変な人気を集めた。

1988年5月29日から6月2日まで、ゴルバチョフ書記長とレーガン大統領がモスクワで会談した。ゴルバチョフ書記長の依頼によりレーガン大統領は、自由市場について、モスクワ大学の学生達を前に講演した。これは、戦略上の敵対国の最高首脳が、ソ連の若者達に公然と、自らの価値観をプロパガンダしたものとして、ソ連の歴史上前代未聞の出来事となった。

1980年代の終わり、マスコミの検閲は緩和され、かつて沈黙を強いられたテーマについて語ることも許されるようになった。

1991年5月、ミハイル・ブルガーコフ生誕100周年に合わせ、モスクワ中心部のパトリアルシエ・プルドゥイで「ブルガキアーダ」祭が祝われた。

1989年3月 ソ連人民代議員選挙が行われた。ソ連権力の最高機関の初めての選挙で、有権者達は初めて、複数の候補者の中から自分の意思で代議員を選んだ。

当時ソ連人民代議員大会のTV中継は、娯楽番組に匹敵する人気があった。

「ソ連:変革の時代」と題されたノーヴォスチ通信の写真展、パリで。

1980年代半ば、ソ連国内では物不足がピークに達し、一方で人々の名目所得と貯蓄額が増大した。1986年11月19日、当局は「個人労働活動法」を採択し、市民が本来の仕事と並行して、自由時間を利用して、別の仕事をすることが許可された。また2年後には「ソ連における協同組合(コーペラチヴ)法」も採択された。商店などの棚には「協同組合」の衣料品や靴が現れた。国営企業が生産する商品は、その量においては十分だったが、これにより「買いたいものが何もない」という状況が改善された。

「店に何か放出された」という表現は「ひどく不足している何かを偶然手に入れられる」というチャンスを意味した。ただ輸入品のブーツの値段は、エンジニアのひと月の給料分にも達した。それでも人々は、ブーツを求め長い行列に並んでいた。しかしそこでは一人2足以上買うことはできなかった。

1988年5月に、モスクワ・ゴーリキイ公園の屋外劇場で、第一回国際音楽祭「平和を求める音楽家達」が開かれた。この催しは、ゴルバチョフ書記長とレーガン大統領の歴史的なモスクワでの会談に合わせて催された。