それは、出版社探しという難題をめぐるものである。手元に『ロシア革命100年の教訓』という拙稿がある。分量にして、400字換算400枚強の量がある。2017年はロシア革命からちょうど100年にあたるから、なんとか来年中にこれを出版したいと考えている。
だが、残念ながら、いまの出版界は厳しい不況にあえいでおり、あまり売れ行きが芳しくない「ロシアもの」を出版してくれそうな出版社がなかなか見当たらない。実は、近年、売れっ子作家となった出口治明ライフネット生命会長にお願いして、出版社を探していただいているのだが、なかなか簡単ではないようだ。
というわけで、もう1、2カ月待ってみて、出版社が見つからなければ、このブログで内容の一部を何度かに分けて開陳してしまおうかとも考えている。そのうえで、Kindle版の本にしようかとも思っている。
ともかくも、拙稿の内容を知ってもらうため、ここに「はじめに」の部分と目次を公開してみよう。なお、縦書きを前提に書いたものだから、それをそのまま掲載する。
はじめに
二〇一七年はロシア革命からちょうど一〇〇年を迎える。いわば、歴史の節目にあたる。これを機に、ロシア革命についてもう一度、考え直してみたいと思う。
といっても、ロシア革命から一〇〇年も経っているため、これを論じた書物も多数ある。定番の書としては、エドワード・ハレット・カー著『ボリシェヴィキ革命』第一巻(原著はThe Bolshevik Revolution, 1917-1923, Macmillan, 1950)や『ロシア革命:レーニンからスターリンへ』(原著はThe Russian Revolution: From Lenin to Stalin, Macmillan, 1979)がある。ロシア革命五〇年を記念して刊行されたアイザック・ドイッチャー著『ロシア革命五十年:未完の革命』という本もある。近年、イーガル・ハルフィンによる、ロシア革命以後の一般人の心の内側に焦点をあてたTerror in My Soulといった興味深い研究成果もある。一九九六年には、ソ連崩壊後に公開された新資料に基づいて、エドワード・ラジンスキー著『赤いツァーリ』によって、これまで知られてこなかった「真実」が明らかにされた。日本人では、鈴木肇が『レーニンの誤りを見抜いた人々:ロシア革命百年、悪夢は続く』という新書を二〇一四年に上梓した。
興味深いのは、ロシア革命後に誕生したソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)なる国がまだ存在したロシア革命五〇年時点に比べて、ソ連崩壊後のロシア革命一〇〇年時点ではロシア革命に対する見方が大幅に変わっていることである。歴史認識がそれぞれの時点の政治思潮に左右されてきた事実は重い。はっきり言ってしまえば、歴史学者や歴史家が論じてきたことは随分と疑わしいのだ。少なくともロシア革命の一面を語るだけで、その本質に肉迫してきたとはとても言えない。
ロシア史研究では、一九六〇年代から七〇年代の米ソの雪解けの時期に、米国に対立する超大国ソ連が一九一七年のロシア革命から直線的に導かれるものではないとして、ソ連体制内の政策やその実施上の対立などに焦点をあてる、リヴィジョニズム(修正主義)と呼ばれる見方が流行する。ソ連が単に全体主義であると批判するのではなく、ソ連社会を構成する労働者などに視点をおいて一九一七年の十月革命を「プロレタリアート革命」としての性格を強調する、「社会史派」というリヴィジョニズムの潮流が一九八〇年代にはやる。
だが、ソ連が崩壊すると、リヴィジョニズムを厳しく批判する動きが広がる。ソ連を近代化の一形態とみなし、その全体主義的傾向を軽視したリヴィジョニズムに対して、ソ連の特殊性、すなわち、全体主義による支配に再び脚光があてられるようになるのだ。たとえば、マーティン・メイリアの著書『ソヴィエトの悲劇』はこうした立場の代表格だ(Malia, 1994)。だからといって、こうした主張が正しいかどうかは疑わしい。
だからこそ、過去のさまざまな経緯を踏まえたうえで、歴史家でもなんでもない筆者があえてロシア革命を振り返りたいと思った次第である。専門家と称せられる人々の言説さえ、歴史の風雪に耐えられないとすれば、むしろ筆者のような「無頼の徒」が歯に衣着せぬ想いを書いたほうがロシア革命の本質に迫れるのではないかと考えたのである。
正直に言えば、ロシア革命から一〇〇年が経過したことがなにか特別の意味があるかというとそんなことはまったくない。ただ、時間の経過とともに歴史的事実に対する見方や評価は変遷するのであり、そうした変化と、現実のいまのロシアとの関係から、ロシア革命を振り返るという行為は決して無意味ではあるまい。
ロシア革命にどう向き合うかの視角を決めようとするとき、「ロシア」の側に力点をおくのか、それとも「革命」に傾いた考察をするかで話の展開は随分と異なったものになるだろう。ロシアに傾けば、ロシアの特殊性だけを言い募ることになるかもしれない。革命という視点に立つと、フランス革命やアメリカ革命との違いを強調しながら革命論を繰り広げることになるだろう。
本書は、これまでのロシア革命論が率直に言って、イデオロギー優先の上滑りの議論にすぎず、「群盲象をなでる」だけに終始してきたという反省のもとに書かれている。おりしも、本家本元のロシアにおいてはすでに、ロシア革命が人類初の社会主義革命であるとの錦の御旗が降ろされた。二〇一三年二月、ロシアでは、ウラジミル・プーチン大統領の中等学校向けのロシアの統一歴史教科書を策定せよとの命令から、そのためのプロジェクトが開始された。同年十月、「国内史に関する新学習教材の概念」がまとまり、これをもとに作成された三社の歴史教科書が二〇一五年五月にロシアの文部科学省によって承認され、九月から使用されるようになったのである。当面、統一歴史教科書の刊行は断念されたのだが、この「概念」が定められたことで、歴史教育の一定の方向性が決まった点が重要だ。その結果、新しい歴史教科書から「社会主義革命」の表記が消え、今後「偉大なロシア革命」と表記されることになった。「概念」で、一九一七年を「偉大なるロシア革命」(Великая российская революция)と教えるように定められた結果である。
ソ連時代、一九一七年の十月革命は「偉大な十月社会主義革命」と呼ばれていたが、一九九一年以降、「十月変革」となり、それが「偉大なる革命」になったというわけだ。その理由は、二月革命と十月革命を合わせて「一九一七年の偉大なるロシア革命」と呼ぶことにしたものと説明されている。そうであっても、本家本元のロシアで、「社会主義革命」という言葉が消えた事実は重い。
本書がロシア革命一〇〇年の「教訓」として取り上げたいのは、政権を握った側が歴史を押しつけてきた事実であり、その国家教育によって翻弄されてきた悲劇である。その「インチキ」を見破る結果として、ロシア革命への新しい視角を提示してみたいと思う。
どうしてそんなことをしたいと思ったかというと、それは自分自身、この数十年の間に大いに騙されてきたからである。今回、この本を書くにあたって、空手指導者にして、優れた思想家であった廣西元信の業績を大いに参考にしている。だが、彼のことを初めて知ったのは残念ながらごく最近のことだ。二〇一〇年に刊行された柄谷行人著『世界史の構造』の注(第三部第四章(8))を読んだときだと吐露しなければならない。
廣西はロシア革命五〇年前後にあたる一九六五~七〇年ころを中心に、カール・マルクスやレーニン(ウラジミル・ウリヤノフ)の思想を理解するうえで欠かせない翻訳上の問題点を指摘し、社会主義思想や共産主義思想の新たな理解のための地平を切り拓こうとした先駆者である。
「社会主義経済」なるものを実践したとされるソ連を研究対象としてきた筆者が廣西のことをなぜ知らなかったかというと、それはまさにソ連が存在していた状況下では、少なくとも日本の学会がイデオロギー優位に席捲されており、社会主義や共産主義に傾倒してきた先達を批判することがきわめて困難な時代状況があったからである。廣西の批判は無視され、廣西の論考がこぶし書房から『資本論の誤訳』として復刻されたのは二〇〇二年であったのだ。もちろん、筆者が勤勉で、こつこつと努力を惜しまなければ、もっと早く廣西の先駆的偉業に接することができたであろうが、権力闘争の場である学問の世界においては、そう簡単に批判に出会うことも難しい。なにしろ、身近な研究者からこうした画期的な業績を教えてもらうこと自体なかったのだから。
「気に入らなければ無視をする」というのが社会科学という、胡散臭い分野では済んでしまいがちなのだ。この傾向はいまでもつづいているから、まったくの誤謬がいまでも多くの人々を騙しつづけていると言える。だからこそ、「ロシア革命一〇〇年」といった節目に過去の過ちを認め、猛省をする必要があるとつくづくと感じるわけである。
本書の序章ではまず、ロシア革命論の虚妄を俎上に載せる。そこではまず、これまでロシア革命について論じられてきた諸説の問題点を考察する。本書における議論を理解するための基礎的な部分を解説したい。つぎに、第1章から第4章まで、ロシア革命の教訓として四つの論点を取り上げる。
第1章では、ロシア革命の背後にあった「社会主義」の実践が国家による「上からのデザイン」を肯定するアプローチや、目標を前提としてその実現をめざす目的論的アプローチを肯定的に考える誤った視角に基づいていたことを取り上げたい。重要なことは、ロシア革命を機に、国家が全面的に干渉する全体主義国家の様相を呈するようになったことであり、その傾向が他の主権国家にも影響し、現在にあってさえ日欧米の先進国においても、あるいは新興国においても、全体主義への傾斜が強まっていることだ。「上からのデザイン」を肯定するアプローチや目的論的アプローチを猛省しなければ、全体主義国家への転落は将来においても必ずや起こるだろう。
第2章では、安全保障を理由にすれば軍事力の強化や秘密警察のような諜報機関などの治安維持を名目にして、いくらでも国家権力を強めることができることをロシア革命後の歴史のなかに跡づけたい。Securityという言葉はもともと気遣いのない状態を意味するのであり、さまざまの気遣いの必要性を想定すればするほど、それに見合った安全保障が必要になる。これを理由にすれば、国家権力がますます強大化する。ロシア革命およびその後のソ連、そしてソ連崩壊後のロシアに至っても、国家自体の安全保障重視路線が変わっていない結果、いまでも諜報機関が官庁にも大規模企業にも潜み、監視・工作活動に従事している。ロシア革命一〇〇年を機に、安易な安全保障重視がもたらす陥穽について反省をしなければならない。
第3章では、カーのように勝者に着目するのではなく、ロシア革命やその後のソ連を生きた人間に注目する。そこには、「ロシア無頼」というロシア特有の感性をもった人々が見出せる。シベリアの極寒の大地を生き抜いてきた人々のもつ、「服従」による「救済」を求める「ケノーシス」という観念がロシア独特の歴史の歩みに影響をおよぼしてきたことを説明したい。そのロシアの特殊性にこそ、ロシア革命の核心が宿っているのかもしれない。こうした見方をすることで、世界中の地域に生きてきた、勝者ではない人々の特性に迫ることが彼らを理解し、彼らと交流するうえできわめて重要であることを示したい。
第4章は、ユートピア論をめぐって議論を展開する。ロシア革命にかかわる共産主義や社会主義の思想は結局、その思想を信じる者らが自らを科学的社会主義などと称し、トマス・モアらのユートピアを「空想的」と揶揄したことと裏腹に、自分たちの思想こそ空想的であっただけではないか。ユートピアをめざすにしても、それが「労働のない社会」といったものであって本当にいいのだろうか。この章では、ロシア革命の背後にあったユートピア主義を反省しつつ、新たなユートピアの徹底を求めたい。
二〇一六年八月
塩原俊彦
はじめに
目次
序章 ロシア革命の虚妄
1 ロシア革命ってなに
2 ユートピアとしての「社会主義」
3 『ドクトル・ジヴァゴ』が教えてくれること
4 『われら』が問いかけること
5 ロシア革命と日本
第1章 デザイン思考への疑問という教訓
1 全体主義国家誕生への道
2 全体主義国家への足音:目的論的アプローチ
3 デザインの虚妄:計画化の虚妄
4 無人支配としての官僚制
第2章 軍事国家ソ連という教訓
1 ロシア革命と軍事化
2 秘密警察の支配
3 「チェーカー」の浸透
4 「ラーゲリ」の意味
第3章 「ロシア無頼」という教訓
1 無法が法
2 ロシア革命下のペトログラード
3 「ケノーシス」という悲哀
4 ロシア無頼としてのプーチン
第4章 ロシア革命の延長線上にあるもの
1 ユートピア思想の系譜
2 ベーシック・インカムの思想
3 ユートピア思想の徹底を
参考文献
結構、満足のゆく出来栄えなのだが、なかなか優秀な編集者に出会えないのが悲しい。私は、1993年ころ、大澤真幸が千葉大助教授であったころ、彼を如水会館に呼び出し、食事をしたことがある。当時、私は朝日新聞外報部記者だったが、若手の優れた社会学者として彼を見出し、話を聴いたわけである。そのとき、彼は「読売新聞の学芸部の記者とは会ったことがあるが、朝日新聞の記者と会うのははじめて」と言っていた。この言葉から、当時の朝日新聞学芸部記者の「無能」を痛感したものだ。私は編集者というわけではなかったが、優れた書き手を見出すことは長い人生の「スプートニク」になりうるだけに重要だと思う。その後、私の北大での英語による研究報告の討論者として、大澤はわざわざ札幌まで来てくれた。この詳しい話は拙著『ビジネス・エシックス』講談社の「あとがき」を参照してほしい。
ついでに、私は若いころ、一度だけ柄谷行人とも会ったことがある。法政大学の教員控室でのことだ。ここでのやり取りは拙著『ロシアの軍需産業』(岩波新書)を宣伝するための随筆に書いておいた。いずれにしても、優れた人物を見極める目を若い編集者にもってもらい、ここで紹介した原稿が一冊の本となることを期待したい。