このテキスト執筆者である私自身、かなり長い間、日本に滞在した経験がある。日本での仮の住まいでいろいろな準備をした時、私がまずしなければならなかったことは、台所の棚にゴミ出しのスケジュール表をピンでとめることだった。そこにはどのように分別し準備すべきか、その方法が詳細に書かれていた。ロシアにはそうしたものは何もない。私の意識において、ヨーグルトの容器を、その蓋と本体の部分に分けて捨てなければならないと理解するのは容易ではなかった。容器本体はプラスチックであり、蓋の部分は紙なので、それぞれ別の日に捨てなければならないのだ。そしてメモ帳あるいは雑誌から、あらゆる鉄製の部分(ホチキスの歯)を抜かなくてはならなかった事は、もっと大変だった。ロシアにおいてゴミというのは、捨てられる汚れた不要物すべてを意味する。
とはいえ私は日本における不可欠な決まりを受け入れ、その後ゴミ分別の作業に大きな熱意を発揮するようになったのだが、ロシア人の中には、私よりはるかにユニークな人もいる。モスクワ大学の卒業生で日本で研修を受けたアーシャさんは、自分の体験を次のように話してくれた-
「私は、東京のマンションに住んでいました。ゴミを捨てることができたのは、朝7時だけでした。各区画では、それぞれのやり方がありました。私達の向かいのマンションには、あらゆるタイプのゴミが捨てられるコンテナがあり、そこにはいつでもゴミを捨てられました。私は、朝7時に起きるのが大変だったので、深夜過ぎにそっと向かいのマンションに行って、ゴミを捨てていました。しかし、私が住むマンションのあるおばあさんが、そんな私に気付いたのです。もう夜中も大分過ぎていたのですが、彼女は、丸一時間も私を連れて、その区画ではどこにゴミを捨てるべきかを説明してくれました。きっと私が外国人なので、分からなかったと思ったのでしょう。」
それでは、ロシアで暮らす日本人にとって、この国のゴミ捨て状況はどう映るのだろうか? スプートニク日本で翻訳者として働く和田さんに、話を聞いてみた。彼は、次のように述べている-
「私が、放送局員が住むアパート に入居した翌々日、隣の安本さんのとこに遊びに行きました。そのとき先輩である安本さんはモスクワ生活の心得みたいなことを色々語って聞かせてくれました。私が『そういえばゴミはどうしたら?』と聞くと、彼は『よし案内する』と言って、空き瓶その他を袋に詰め、アパートのゴミ捨て場に連れて行ってくれました。そこにあったは全住民分のゴミを集める大容積コンテナでした。袋をそれにぽんと投げ込んだ安本氏は『これでおしまい。365日24時間、いつでも出していい。分別は一切無い』と言いました。ああ、ラクでいいなと思いました。あれ以来モスクワもだいぶ変わりましたが、この驚くべき非環境コンシャスな慣行はいまもって改められていません。」
ロシアの街頭には、日本同様ゴミ箱が置かれている。最近、あまり大きくないプラスチック製のものも現れ始めた。紙くずやガラス及びビン類など用である。しかし一般によく見かけるのは、あらゆるゴミを捨てるプリミティブな鉄製の頑丈なゴミ箱だ。それらは、日本よりもはるかにたくさん、ロシアの街に置かれている。
ゴミ捨てに対する、こうしたロシアと日本の違いは、私の見るところまず第一に、二つの国の大きさの違いと関係があるように思える。グリンピース・ロシアの資料によれば、この国のゴミ捨て場は、毎年、モスクワとペテルブルクを一緒にした面積と同じ大きさ、拡大している。しかしそうは言っても、ゴミ捨て場は、住民居住地区から離れており、近隣住民からクレームがつくようなことはない。もし、そうしたことをしなくてもよかったなら、ただ単に「より良くなるまで」あらゆるゴミをいつでもどこかに捨てることができたなら、果たして日本でゴミ処理があれほど発達を始めたのかどうか、この問いに答えるのは難しい。
様々なデータによれば、現時点でロシアで出されるゴミ全体のうち、処理されているものは約4分の1にしか過ぎない。こうした状況は、今のところ、生活条件の悪化をもたらしていないものの、やはり環境に対し深刻な脅威となっており、多くの資源を無駄遣いし、リサイクル使用の可能性を失わせている。ロシア政府は、こうした状況を断固変えたいと考えている。それゆえゴミの処理は、現在、日本と真剣に協力を進めつつある主要な領域の一つになった。この分野における日本の経験と技術は、モスクワ及びモスクワ州、さらには沿海地方、タタールスタン及びブリャーチヤ両共和国、ウリヤノフスク州などでのゴミ処理工場建設において、利用される計画である。
先に、大西洋の世界海洋の水は細かいプラスチックゴミで汚染されており、魚をはじめとする海洋生物を危険にさらしている、と報じられた。