古い名前で呼ばれようが、新たな名称に変わろうがこの日本語課はもはや私には第2の家族だ。この家族の一員に私がなったのは1990年代。この国がめまぐるしい変革に一目散にまい進していた時期だった。この時期を郷愁を覚えずに振り返る人もいると思う。だがジャーナリストたちにとってはこれはものすごい時期だった。今までとはまったく異なる報道がテレビ、ラジオ、マスコミでなされ、街頭では今までにない熱を帯びた言葉が飛び交っていたのだ。私たちは若く、力に溢れ、こうした新たなジャーナリズムを体いっぱいに吸い込んだだけでなく、親交を広げ、増やした。互いの仕事上の成功を心から喜びあったし、若かったのでもちろん恋愛もさかんで、いくつもの結婚式を祝い、降誕祭を共に迎え、悲しいことが起きると共に涙したものだった。
そんなある日、日本語課で笑い出したら止まらない陽気な娘のナターシャが恋に落ちた。お相手は同じラジオに勤務する、だが日本語課ではなく英語課に所属の男性で名をルーカスといった。
ルーカスの血筋はもともとはオランダ人。それも南アフリカに初の移住者として渡ったというオランダ人の子孫だった。ルーカスとナターシャはものすごい似たもの同士で、笑う冗談も同じなら読む本も同じ、聞く音楽も同じだった。だがルーカスがどんなにナターシャを、そしてロシアを深く愛そうとやはり自分が生まれ育ち、親もいる祖国への思いは絶てない。そんなわけでルーカスの契約期限が切れるとナターシャは決断に迫られた。ロシアに留まるか、それともルーカスを追って新天地へと渡るか。まったく知らない土地、しかも決して政情が安定しているとはいえない国…。しかしナターシャは愛を貫く道を選んだ。
こうして国外へと去ったナターシャが日本語課に姿を表したのはそれから10年後。夫のルーカスと小さな娘のカーチャを伴っていた。
私は再び友達を見つけ、スカイプ、ワッツアップでおしゃべりするようになった。インターネットのおかげで互いの距離は縮まった。それにうれしいことに私たちの仕事には友達の子どもたちも関わるようになる。
彼女の娘カーチャは小さいころから歌うのが大好きだった。そして大きくなるとプロのオペラ歌手をめざすようになった。それはカーチャが稀有なコントラルトの持ち主だったことがわかったからだった。数年がたって彼女の夢は実現した。2016年、カーチャはモスクワ音楽院に入学するためロシアへ帰国した。そんなカーチャの音楽院での毎日は、才能豊かな日本人音楽生の岡田知果さんと流れている。2人の練習はもう2年になる。この岡田さんへのインタビューは近日中にもスプートニクのサイトに登場するので、どうぞお楽しみに。
こんなふうに人生はどこでどう展開し、振り出しに戻ってくるか分からないものだ。ほら、言い草にもあるではないか。「世間は狭い」と。
タチヤナ・フロニ