しかしそんなモスクワにも、とうとうおにぎりが登場した。しかも味のレベルは日本並みか、具によってはそれ以上である。てっきり日系企業と思いきや、そうではなく、おにぎりに魅せられたある女性が始めた、ファミリービジネスだった。グルジア人とギリシャ人の血をひくエキゾチックな美女、マリヤ・サリディさんは、家族でおにぎり屋さん「サリコ」を経営している。店名は苗字から取ったものだ。
マリヤさんの叔母は、学者である夫の仕事の都合で10年間日本に滞在した。叔母はモスクワに来るたび、おにぎりを持ってきてくれた。また、マリヤさんたちが日本に遊びに行ったとき、観光の合間にお腹を満たしてくれたのはいつもおにぎりだった。
マリヤさん「おにぎりは美味しいだけではなくて、健康によく、どこでも食べられます。そういうコンセプトの食品がモスクワには足りないと思い、ずっとおにぎりを作ることを夢に見て、父と一緒にアイデアを温めてきたのです。2年前に機が熟し、それまで勤めていた会社を辞め、全くのゼロから始めました。」
具をどうするか、米を炊くのに使う水は硬水か軟水か、水を増やすか減らすか等、試行錯誤の繰り返しだった。おにぎりの消費期限は2日間だが、冷蔵庫にずっと置いておくと、2日目にはご飯がパサパサになってしまう。この問題を解決するためマリヤさんたちは試作を繰り返した上、「米が硬い」「乾いている」「具の量が少ない」など、食べた人からの意見を集め、すぐに改善させてきた。結果、モスクワ在住の日本人が「日本のおにぎりみたい!」と驚くレベルにまで達することができた。
マリヤさんは、日本の三角おにぎりの海苔が、独自のパッケージのおかげでいつもパリッとした状態に保たれていることは「ファーストフード界の革命」だと考えている。残念ながらこのパッケージと海苔の組み合わせはロシアでは製造されていないため、日本、中国、韓国、タイなどのアジア各国から、質と値段を考慮して随時購入している。今のところ、ご飯と具をパッケージで包む作業は6人のコックが手作業で行っているが、売り上げが好調なので、自動で包む機械を購入する目処がついたとマリヤさんは喜んでいる。現在は1日2000個のおにぎりを製造している。
具は、この記事を書いている11月現在で、鮭、ツナマヨ、照り焼きチキン、キノコ、いくらチーズ、辛子、かぼちゃがある。かぼちゃ?と驚くなかれ、これが美味しいのだ。特にロシアのかぼちゃは巨大すぎて包丁を入れるのも一苦労なので、手軽にかぼちゃが食べられるのはありがたい。具の種類は随時変わるが、ダントツでロシア人に人気なのは鮭で、他のおにぎりの約2倍の売り上げがある。マリヤさんはおにぎりの定番・梅干が大好きだが、一般のロシア人に梅干は不人気なため、商品化には至っていない。また、米を主食ではなく、付け合わせだと考えているロシア人のために、日本のおにぎりよりも具を多くしている。
サリコのおにぎりは、高級スーパー「アズブーカ・フクーサ」と、女性に大人気で急速に店舗を拡大している自然派食品の店「フクース・ビル」、ビジネスセンターや空港内のミニマーケット等で買うことができる。おにぎりという存在はロシア人に広く知られてはいないが、何かのきっかけでおにぎりを食べた人は、気に入って購入し続ける傾向にあるという。つまり一回試してもらえさえすれば、売り上げが更に拡大する可能性がある。しかしおにぎりは、ロシア人の目にはただの黒い三角形に見えるので、おにぎりを知らない人に手にとってもらうのは簡単ではない。これまで、サリコは広告に全くお金をかけてこなかったので、知名度アップが今後の課題だと言えよう。
サリコは今のところ製造と小売店への配達に専念しているので、お客さんと直接触れ合う機会が少ない。しかしマリヤさんは、ゆくゆくは、自分たちの店をもちたいと考えている。
マリヤさん「夢は、おにぎりカフェをモスクワにオープンさせることです。できれば何店舗か展開し、おにぎり以外にも健康的で、かつ持ち運びに便利な日本食、手巻き寿司やお弁当といったものを販売したいです。日本食レストランはモスクワ中のどこにでもありますし、寿司の宅配や持ち帰りもあります。しかし私たちのコンセプトはそれとは異なり、『気軽にテイクアウトでき、しかも健康によい食品』ということなのです。」
おにぎりは、日本人にとって単なる食べ物ではなく、ソウルフードである。日本文化を愛するマリヤさんは、日本に滞在する中でそのことに気付いた。現在、日本と名のつくカフェやレストランはモスクワに数え切れないほどたくさんあるが、身体のことにまで気を配った料理が食べられるのは、そのうちのごく一部のみだ。2年間で急進的な成長を遂げたサリコが、モスクワに第二の日本食ブームを起こしてくれるのを期待したい。