第1章 デザイン思考への疑問という教訓
1 全体主義国家誕生への道
全体主義と言えば、ヒトラーのナチ支配やソ連のことだと思っている人が多いかもしれないが、本当は、米国も日本も中国も全体主義国家と言えなくはない。全体主義はトータリタリアニズム(totalitarianism)と呼ばれ、「個人は国家・社会・民族などを構成する部分であるとし、個人の自由や権利より国家全体の利益が優先する思想、また、その体制」(『広辞苑』)を意味している。個人より国家全体の利益を優先する程度次第で全体主義の程度が異なるだけであり、日本や米国が全体主義ではないなどとそもそも断言することなどできないのだ。
エミル・レーデラーはその著書『大衆の国家』のなかで、「全体主義国家は大衆の国家である」と書いている(Lederer, 1940=1966, p. 41)。大衆の存在自体が全体主義国家につながりかねないというわけである。シグマンド・ノイマンは『大衆国家と独裁』のなかでは、大衆操作のために藝術が活用されてきたことに目を向けている(Neumann, 1942=1998, pp. 117-118)。ソ連の場合、社会主義リアリズムなる藝術運動があった。「普通の国」でも藝術を通じた全体主義国家への萌芽はそこかしこにある。
全体主義の国家体制を厳密に定義づけるために、カール・フリードリヒーらはつぎの六つの指標から全体主義化の程度を考察している(Friedrich, & Brzezinski, 1965, pp. 22)。①念入りにつくられたイデオロギー、②典型的に一人の人間により指導される単一の大衆政党、③党と秘密警察を通じてもたらされるテロルのシステム、④マスコミのすべての手段を党や政府に支配のもとに独占すること、⑤武器の利用のほぼ完全な独占、⑥官僚的調整を通じた経済の集権的コントロール--というのがそれである。それぞれの項目ごとに日欧米先進国ごとに程度の差はあるものの、これらの条件が多少なりとも当てはまると認めないわけにはゆかないのではないか。これは裏を返せば、全体主義国家は程度の差にすぎず、日欧米の先進国であっても全体主義国家とは無関係などとは決して言えないことになる。
よく現在の中国やロシアを「国家資本主義」と呼ぶものがいる(たとえば加藤, 2013やThe Economist, Jan. 21st, 2012)。義務教育を通じて国家に都合のいい労働者を育成してきた以上、英国もフランスも日本も国家資本主義的な側面をもっている。あるいは、国家主導で特定産業の保護育成をはかっているのだから、国家資本主義でないとは強弁できまい。これと同じように、欧米先進国であっても、決して全体主義的側面がないとは断じえない。その証拠に国家の安全保障を理由に、個人の自由や権利を制限する数々の措置を国家は個人に強いている。近年になって、知らず知らずのうちに全体主義の傾向が世界的に強まっているような気がしてならない。それは、ロシア革命がもたらしたソ連という全体主義国家の再来という悪夢を想起させる。ロシア革命一〇〇年の教訓がいかされていないのだ。
国家の優位は「上からのデザイン」を肯定するアプローチを前提としている。こうした「上から目線」こそ反省しなければならないのである。
国家=政府の活動範囲の拡大
一九世紀後半から二〇世紀にかけて、国家=政府の積極的な活動が奨励されるようになる。それに重大な役割を果たしたのは英国の社会運動家ウェッブ夫妻、とくにベアトリス夫人であった。国家=政府は貧困者の救済に積極的にかかわるべきであると主張したのである。社会福祉への国家=政府の関与はヨーロッパで広がったが、大陸部では一八七〇年から七一年の普仏戦争に勝利しドイツ帝国が誕生したドイツでは戦後の景気後退のなかで国内産業や農業を守るための関税導入という形で国家=政府が国家間の貿易競争の全面に現れることになる。一九世紀を通して、英国では自由貿易か否かが国内政治を揺るがしてきたが、貿易における国家=政府間の争いが戦争につながるまでになる。
二〇世紀初頭にはテディ・ルーズヴェルト米大統領によって国家による福祉政策の一部が受けいれられるようになる。その後、ジョン・メイナード・ケインズが不況時の国家=政府による需要喚起の必要性を説いたことで、国家=政府が経済活動に積極的に働きかけるべきだとの見方が広がる。具体的には、フランクリン・ルーズヴェルト米大統領はテネシー川流域開発公社を設立したほか、証券市場への規制強化のために証券・為替委員会を設置するなどした。記憶にとどめるべきは、彼の「ニューディール」と呼ばれる政策がドイツやイタリアですでに起きていたことの反響でしかなかったことである。すでに経済を改善したり、社会秩序を維持したりするためにドイツやイタリアで国家=政府が実践していた国家主義の影響を受けていたのだ。
ついでに指摘しなければならないのは、一九三〇年代にアメリカのカリフォルニアで盛んであった優生学がドイツに影響をおよぼしたという事実である。一九三三年までにカリフォルニアは他の全州の合計よりも多くの人々に強制的に不妊手術を施していたのであり、ドイツの国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)はこの不妊手術の実践的なノウハウを学んだのである。ドイツ本国では、エルンスト・ヘッケルが優生学を推進したが、米国で優生学を広めたチャールズ・ダベンポートの影響下におかれていたと考えるほうが正しい。
もう一つ忘れてならないのは、ジョナ・ゴールドバーグが『リベラル・ファシズム』で主張するように、一九三〇年代にファシズムが進歩主義的運動と広範にみなされており、左翼の多数によって支援されていたという事実である。ゆえに、ファシズムもコミュニズムも全体主義として唾棄されることになる。実はこうした全体主義を批判する英米もまた国家主義的傾向を強めることになった。この点が決定的に重要である。大同小異とまでは言わないが、ナチスのユダヤ人迫害の遠因がカリフォルニアで発達した優生学にあったことを考慮すると、ドイツも米国も国家=政府の内的展開(エヴォリューション)には紆余曲折をともなっているのであり、国家としてどちらが優れているのかといった議論はあまり意味をもたないのではないかとさえ思われる。
問題の核心はこうした歴史的経緯を経て、全体主義的な国家=政府も、英米の国家=政府も戦争に勝つための緊急措置として包括的な中央計画化や動員計画を採用したことにある。人類にとって不幸だったのは、ファシズムや日本軍国主義を打破するために全体主義のソ連と英米が組んだこともあって、戦後になっても「緊急措置としての計画化」という、国家=政府主導の経済活動への干渉(生産量や価格への規制など)という「上からのデザイン」を肯定するアプローチが生き残ってしまったことである。あるいは、米ソの冷戦が国家=政府主導のアプローチを存続させてしまった。
サッチャー、レーガンの登場
一九四四年にフリードリヒ・ハイエクは『隷従への道』を刊行する。このなかで、彼は貧困からの自由のための国家=政府による計画化がかえって専制、抑圧、隷従への道につながるとする自説を展開した。といっても全面的な国家=政府による市場への介入を全面的に否定しているわけではなく、「健康や仕事の能力の保持に必要な最低限の食料、住処、衣服がだれしもに約束されうることに疑いをさしはさむ余地はない」として、最低限の国家=政府の関与は認めている。
国家=政府の内的展開を考慮すると、戦争でいきすぎた国家=政府の優位、上からの計画化、デザインという方向性を戦争前の状態に戻すことは当然のように思われる。だが、実際には英国政府はロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)で働いていたハイエクの警鐘をまったく無視して、産業、医療、教育、安全保障における生産手段の包括的国営化に着手する。各産業の国営化の状況をみると、石炭(一九四六年)、鉄鋼(一九四九年)、電力(一九四七年)、ガス(一九四八年)、鉄道・道路・航路の輸送(一九四七年)、民間航空(一九四六年)となっている。おまけに、医療さえも国家が直接、税金によって賄うというソ連で行われていたやり方を採り入れてしまうのだ。これは、「上からのデザイン」を肯定するアプローチの全面化を意味し、定義次第では全体主義と言えなくもない傾向を強めることになる。
こうして、国家=政府の優位は第二次世界戦後になってむしろ強まるのだ。その背後には、米ソ対立があったこともあるが、一度手に入れた権限を手放そうとしない官僚の悪賢い思惑も隠れている。米国でも事情は同じであり、一説には、政府歳出は一九一三年のGDPの七・五%から一九六〇年に二七%、二〇〇〇年に三〇%、二〇一一年に四一%まで上昇する。まさに、国家=政府が「神」であるかのように各国で振舞うようになる。
この過程で、一九七〇年代になってミルトン・フリードマンによる反撃が開始される。興味深いのは一九七八年六月、州財政の基幹税である財産税に厳しい課税制限を課すカリフォルニア州の住民提案一三号が六割以上の賛成で可決されたことである。この「提案一三」を強く支持したのがフリードマンであった。これにより、カリフォルニア州は税収の五割強を失うことになるが、それでも「小さな政府」を求める声が強かったのはたしかであり、カリフォルニア州の動きが他の州にも伝播し、それがドナルド・レーガンの一九八〇年十一月の大統領選での勝利を後押ししたのである。一九七九年五月、英国首相に就任したマーガレット・サッチャーはレーガン以上に「小さな政府」をめざして格闘し、過度に肥大した政府部門を縮小させることに全力をあげた。
ところが、「小さな政府」をめざす政策は政権交代によって頓挫し、再び「大きな政府」に振れてしまう。こうして、いまでも国家=政府は多くの問題をかかえたまま、国債による借金で問題解決を先延ばししている状況にある。
E・H・カーの過ち
ここで、「歴史は勝者が語るのか」という問題について論じておきたい。近代化後に誕生した各主権国家はいまのところ、それぞれの国において勝者として振舞うことができ、そうした国家に都合のいい歴史を各国の国民に義務教育を通じて押しつけているようにみえる。その意味で、勝者としての国家が語る歴史という理解が正しいのかをまず、俎上に載せたい。
ここでの問題提起はいわゆる「歴史認識」にかかわっている。本書ですでに紹介したロシア家として有名なE・H・カーは『歴史とは何か』という歴史認識についてものべている。たとえば、「歴史における客観性--まだこの便宜的な言葉を使うとしますと--というのは、事実の客観性ではなく、単に関係の客観性、つまり、事実と解釈との間の、過去と現在と未来との間の関係の客観性なのです」といった認識を示している(Carr, 1961=1962, p. 178)。
しかし、これに対して積極的自由と消極的自由という自由論で知られるアイザイア・バーリンはカーの立場を批判した。相互の論争は「カー・バーリン論争」と呼ばれており、今日でも重要な意義をもつ。この問題については松村高夫著「歴史認識論と「歴史認識問題」」が役に立つ(松村, 2006)。この論文を補助線としながら、勝者である国家が押しつける歴史観という問題について考えてみたい。ロシア革命という歴史をソ連やロシアの国家観とは離れて考察することにつなげたいからである。
バーリンは「人は歴史上の出来事の連鎖のなかに、大きなパターンや規則性が発見できるとする見解は、分類や相互関係、とりわけ予測という点で自然科学の成功から影響を受けた人々にとって当然魅力的である」と記す(Berlin, 1998, p. 121)。これは、まさに科学的社会主義を標榜するマルクスの歴史認識であり、それはヘーゲルに基づいている。バーリンは、歴史が法則に従い、出来事が必然的パターンの一要素とみなす見方のもとには、目的論的な視線があるという。このため目的論は、「上に」または「外に」あるいは「超えて」ある無時間的な永遠の超越的な実在があるかのような「説明」に終始する。その説明はパターンの発見であり、目的に向かっているものとして「事実上それ以外に起こりようがない」と主張することで、個人の選択の自由を軽視する。そのため、個人の選択に伴う責任の問題がないがしろにされてしまうと、バーリンは厳しく批判する。
目的論は物質が自ら運動するとみる自然哲学を否定する見方を端緒としている(柄谷, 2012, pp. 97-99)。量子力学を知っている現代人にとっては、この見方は決しておかしな主張とは思えない。クォンタム(量子)は粒子(質量)であると同時に波動(運動)であり、静止して見える物の内部では量子が幾重にも飛び交っているのである。
他方、物質の自己運動を否定すると、運動を引き起こす淵源としてなにかを想定せざるをえなくなる。たとえばプラトンは神を想定した。アリストテレスはプラトンと異なり、物質の自己運動性を認めたが、その運動(生成)は物質に内在する原因によって生じると考えた。その原因は、質量因と始動因、目的因と外相因であるとしたうえで、運動が目的(終り)をもつと考えた。それが目的因のことである。ただし、この見方は事物が生成したのちに初めて見出されるものであり、事後的観点から説明するという姿勢を意味している。事後の勝者が自らに有利な歴史を捏造できることになる。
ゆえに、バーリンはカーの歴史観全体には歴史を「巨大歩兵大隊」の物語としてとらえる姿勢があると批判する。バーリンは、権力をもった大隊が事実上成し遂げるものはなんであっても進歩とみなすとして、「カー氏の社会生活のイメージは戦場のそれであり、そこでの歴史家の仕事は勝利者を取り上げることなのである」と指摘している(Berlin, 1962, p. 16)。
他方で、ロシア革命に関連づけて、村松はバーリンの批判をつぎのように要約している。
「バーリンは、マルクス主義史学は抽象的な社会経済的因果関係だけを強調し、個人の思想、信念、意図を無視していると批判したのです。レーニンの意識的動機や目的はボリシェヴィキ革命にとって重要なファクターではないのか、もしスターリンがレーニンより前に死んでいたならば、つづくソ連の歴史コースは異なっていたのではないか、と批判したのです」(松村, 2006, p. 8)。
自由について考えたバーリンは歴史における個人の役割の重要性を強調した。だからこそ、彼はカーの『ロシア史』がボリシェヴィキの歴史、勝者の歴史を描いており、対立し敗れていった人間の歴史が書かれていないと糾弾したのである。バーリンは一九五〇年十二月、カー著『ボリシェヴィキ革命』(一九一七~二三年)への書評として、「カー氏は勝利者の目を通して歴史を見ている」とはっきりと書いている(Berlin, 1950, p. 3)。
筆者はこのバーリンの主張を基本的に正しいと思う。だからこそ本書では、あえて『ドクトル・ジヴァゴ』を紹介し、ロシア革命当時を生きた人々を描いた小説に注目したわけだ。たとえこの小説が虚構の世界を描いたものであっても、そこにはリアリティが十分に感じられる。それゆえ、ソ連政府はこの小説を発禁処分にしたのである。
「政府の失敗」としての教育
カーと同じく、国家は歴史の勝者として国民にその歴史観を押しつける。ここに、「政府の失敗」としての教育を見出すことができる。個人より国家の利益を優先させる見方を教育で植えつけることで、全体主義への道に引きずり込むのだ。これは政府の永続性に資するようにみえる努力だが、その実、政府を構成する国民を盲目化させるだけであり、結局、戦争による政府の死を早めるだけかもしれない。だからこそ、こうした国家による歴史教育は「政府の失敗」と呼べるのである。
ヨーロッパの場合、義務教育は宗教教育を通じて行われた義務教育を国家が教会や領主から簒奪して担うものであった。もともとは、ギリシャ時代のスパルタでの教育は一種の義務教育であったと言えるし、八〇二年にはカール大帝が貴族の子弟に限定されない義務教育令を発した。こうした事例は認められるものの、歴史のなかで忘却される。広く民衆に教育を施すという考え方が広範囲に政策に採用されるようになったのは、民衆が聖書を読めるようにするという宗教改革の精神を自領地内で実践しようとする為政者が現れたためである。いわゆるゴータ公国を治めていた、ルター派のエルンスト一世は一六四二年、ゴータ教育令を発し、一二歳までの義務教育制度を整備した。文字を読めるようになることに力を入れ、一人一人が聖書と向き合うことを可能にした。一七六三年に、プロイセンのフリードリヒ二世は「一般地方学時通則」を発令し、王に対する忠誠心と愛国心を養うとともにキリスト教道徳を教え込むための初頭教育制度をスタートさせた。一八七二年になると「学校監督法」ができ、公教育において宗教が分離されることになった。
カトリック教会が支配的であったフランスでは、教会の力が強く、国家による宗教への干渉が警戒された。この結果、フランスでの義務教育導入は一八八二年のことだ。同時に、義務教育における非宗教性・政教分離の原則(「ライシテ」, laïcité)が導入された。国家が宗教に直接、関与しないことを条件に義務教育化がようやく認められるようになったのだ。
国家による歴史教育 (割愛)