『ロシア革命一〇〇年の教訓』(14)

© Sputnik / Alexander Vikulov『ロシア革命一〇〇年の教訓』(14)
『ロシア革命一〇〇年の教訓』(14) - Sputnik 日本
サイン
今回は「第2章 軍事国家ソ連という教訓」の第四節をご紹介しよう。

ロシア革命 - Sputnik 日本
つぎの拙著へ向けて:『ロシア革命100年の教訓』(仮題)
第2章 軍事国家ソ連という教訓

4 「ラーゲリ」の意味

「チェーカー」はラーゲリ(収容所)を所管することで、その影響力を経済全般にもおよぼしていた点にも注意を向けなければならない。一九二九年五月十三日付の全ソ共産党(ボリシェヴィキ)政治局決定によって、三年を超す判決をもつ囚人の大量労働利用システムへの移行が決められ、当時の司法人民コミッサールやOGPUの事実上のトップらをメンバーとする委員会が詳細を検討し、具体的な利用条件を決めるよう委任された。同委員会は一九二九年六月二十七日付で政治局が承認した「囚人労働利用に関する決定」を準備した。さらに、人民コミッサールソヴィエトは同年七月十一日、OGPU集中収容所の名前を矯正労働収容所に改称した。OGPUは同年秋から矯正労働収容所網の建設に着手し、一九三〇年四月、人民コミッサールソヴィエト決定「矯正労働収容所規程の承認」が出され、事実上、同時にOGPU矯正労働収容所総局の創設が決まった。同総局は一九三〇年十月から、グラーグ(矯正労働収容所総管理本部)と呼ばれるようになる。

まさに、チェーカーの支配下で、収容所に無理やり押し込まれた人々の労働力が奴隷労働のように利用されることになるのだ。だが、筆者の育ったグループの重鎮、野々村一雄は教科書『社会主義経済論講義』のなかで、こうした労働力の利用がソ連経済をたしかに支えていた事実をまったく無視している。まったく恥ずかしい限りだ。歴史は学者の無能をもたしかに白日のもとにさらしてくれるのだ。

最大時二五〇万人の収容所労働

グラーグが管理する収容所の労働力は一九三二年から白海・バルト海の大運河建設に利用されるようになる。加えて、モスクワ・ヴォルガ大運河の建設にも従事した。一九三〇年代末には、銅、金、石炭、木材等々の採掘や伐採のかなりの部分がラーゲリの労働力に頼ることになった。この結果、「大規模な建設が始まる前に、内務人民委員部の諸機関が、何名の逮捕が必要というあからさまな指令を受けるようになった」というラジンスキーの指摘はとくに重要である(Radzinsky, 1996=1996, 下, p. 190)。収容所の労働力が計画化に明確に組み込まれ、ソ連経済の発展に寄与することが強制されるようになっていたのだ。

第二次世界大戦の数年間に、八二万五〇〇〇人以上の囚人が死亡し、一〇〇万人強の囚人が赤軍に充塡された。労働力としてだけではなく、兵力としても利用されたわけである。戦後になると、グラーグ管理下の囚人数は増加し、最大時二五〇万人を上回ったという(Бородкин, 2009, p. 36)。一説によると、それは一九五〇年ころで、当時の勤労者数四〇四〇万人に比べると、決して多くはない(Цепкалова, 2009, p. 377)。別の情報では、グラーグの囚人の最大数は国防関連施設、核兵器開発、ヴォルガ・ドン運河、クイブシ水力発電所建設などため、一九五〇年に二六〇万人にのぼったという(http://files.school-collection.edu.ru)。戦後になっても、収容所の労働力は極寒地開発といった厳しい労働環境での労働力としてきわめて重要な役割を果たしていたと言える。スターリンの死亡した一九五三年までにグラーグシステムは一六六のラーゲリを所管するまでに至る(Цепкалова, 2009, p. 376)。

一九四二年には、子どももラーゲリに押し込め、労働力として活用するようになる(Radzinsky, 1996=1996, 下, p. 237)。戦争や大粛清で身寄りをなくした子どもを収容所に入れて、労働力としたわけだ。もちろん、捕虜も収容所で労働力として利用された。ここで思い出されるのは、ポーランド崩壊後、二万人を超すポーランド士官がポーランドとロシアとの国境近くのロシア側のラーゲリに収容されていたのだが、彼らのほとんどがロシア側によって虐殺された問題である。一九九五年四月のスモーレンスクでのロシアとポーランドのジャーナリストたちとの記者会見では、複数のラーゲリで殺されたポーランド人捕虜の総数は二万一八五七名であるとされた(同, p. 335)。もちろん、日本の人々も捕虜として収容所に収容され、厳しい労働を強いられた。いわゆる「シベリア抑留」で四万六三〇〇人の日本人の尊い命が失われたことを忘れてはならない(村山, 2009)。

ロシア革命 - Sputnik 日本
『ロシア革命一〇〇年の教訓』(2)
グラーグは一九六〇年まで生き残る

「チェーカー」の傘下にあるグラーグによってラーゲリが管理・運営され、その労働力がソ連の計画経済に組み込まれ、きわめて重要な役割を果たしていた。だからこそ、このシステムはスターリンの死後、すぐに廃止されたわけではない。スターリンが死んだ同じ月の三月二十五日付ソ連閣僚会議決定で、ソ連にとって切迫した必要性のない一連の大規模プロジェクト建設への囚人の関与が停止された。同月二十七日付のソ連最高会議幹部会令によって、約一二〇万の囚人がラーゲリから釈放されることになった。さらに、グラーグは当時の内務省から司法省の管轄に移行された。しかし、一九五三~五四年に一連の収容所で暴動が発生し、これを鎮圧するために軍隊が投入されるなどの混乱から、その管轄を内務省に戻さざるをえなくなる。収容所に収容された囚人の数は一九五四年四月の一三六万人から一九五六年一月の七八万人に逓減したが、まだまだ囚人の利用価値はあったのである。

一九五六年十月二十五日付ソ連共産党中央委員会とソ連閣僚会議の決定で、ようやくソ連内務省矯正労働収容所の存在自体が合目的的でないと認定されるに至る。だが、すぐにグラーグによる労働力利用システムが廃止されたわけではなく、一九六〇年一月十三日付ソ連最高会議幹部会令によってその撤廃が決まるのである。これが意味するのは、グラーグを利用した「チェーカー」による支配がソ連全体を強力に浸透しており、その廃止さえそう簡単ではなかったということだ。スターリンによる恐怖や脅迫による支配が終結しても、「チェーカー」は生き残った。有名な「カー・ゲー・ベー」(KGB)はスターリン後に閣僚会議の付属機関(国家保安委員会)として再編されるのである。独裁者に「チェーカー」が支配されないようにするためであった。だが、その監視や密告に基づく治安維持という「チェーカー」の本質は残存したのであり、それはソ連崩壊後も失われたとは決して言えない。

 

ニュース一覧
0
コメント投稿には、
ログインまたは新規登録が必要です
loader
チャットで返信
Заголовок открываемого материала