ヴィターリイ・チュルキン氏は、子供時代、映画俳優になろうとした。「ブルーノート」(1963)、「03」(1964)そして「母の心臓」(1965)の三作に出演した。氏は、生前、笑みを浮かべながら「結局俳優にはならなかったが、ここでも私は、国連という舞台に出なければならない」と語っていた。
1969年氏は、ソ連外務省付属モスクワ国際関係大学国際関係学部に入学、外交官の道を選んだ。
チュルキン氏は長らく通訳として働き、若い頃は、ブレジネフ書記長の通訳を務めた。通訳としての経験、瞬間的に反応する能力、ユーモア感覚、とりわけ英語のユーモア感覚は、彼の無敵の武器だった。
チュルキン氏は、西側外交官及び西側マスコミとの交流経験が極めて豊富だった。氏が初めて、世界中のTV画面に登場したのは1986年のことで、チェルノブィリの悲劇について世界に伝えるという責任の重い仕事だった。
あるインタビューの中で、チュルキン氏は、外交官という仕事を製鋼労働者のそれと比べ、一日の労働時間は12時間、国連職員の例外というよりも、むしろそれが決まりなのだと述べている。
チュルキン氏の伝記を語るには、長い長い時間が必要だ。それは語りつくせない。氏は、自分の発言に疑いを持たず、眼鏡をかけ白髪の紳士だったが若かった。傑出した外交官で、人生を愛し、自分の仕事を愛し、それを100%遂行する事の出来る人だった。氏は、そんな人間として人々の記憶に刻まれている。