革命から100年:知られざる亡命者が日本に残してくれたもの

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ロシアは、100年という歳月のうちに、帝政ロシア、ソビエト連邦、そして現代ロシアと、政治体制が3回も変わった稀有な国だ。今年は、ロマノフ王朝が崩壊した二月革命から100周年を迎える。当時、多数のロシア人が混乱する祖国を離れ、移民となった。内戦から逃れた人や、人種のために迫害を受けた人、政治体制に反対する人など、それぞれに様々な事情があった。

政治信条や人種に関わらず、革命後に祖国を逃れ移民した人々は、総称して白系ロシア人と呼ばれている。革命後、1921年までに約200万人がロシアから亡命した。そのうち日本へ何人くらい逃れてきたのか、正確な数字は不明だ。ロシア人の住民登録者数が最も多かったのは1930年(昭和5年)の1666人であるが、これはあくまでも居住者として登録された数。実際は未登録の人や日本を経由し第三国へ逃れていった人が相当数おり、革命直後は、おそらく五千人から一万人の間くらいという規模でロシア人が滞在していたと見られている。

スプートニクは、日露交流史と白系ロシア人の歴史に詳しい、埼玉大学の澤田和彦教授に話を伺った。澤田氏は「白系ロシア人の研究を始めたのは約20年前のことです。それまでこの分野は手付かずの状態であったため、まさに研究対象の宝庫であり、魅力を感じました。亡命してきた人たちの多くは、貧しく苦しい立場におかれながらも互いに助け合い、日本の社会と文化に影響を与えたのです。そんな彼らの功績を明らかにしたいと思いました」と話す。

白系ロシア人研究は、澤田氏らが立ち上げ・運営に携わった「来日ロシア人研究会」なしに語ることはできない。この研究会は、1980年代頃から活動していた「『ロシアと日本』研究会」の流れを汲み、1995年12月に活動を開始した。職業も国籍も一切問わないオープンな会で、研究発表の他に亡命ロシア人本人やその子孫を招くなどして情報収集を重ねてきたが、昨年10月、100回目の例会を区切りに活動を終了した。同会は「異郷に生きる-来日ロシア人の足跡」(成文社)という論文集を6冊刊行している。

© 写真 : Kazuhiko Sawada来日ロシア人研究会の主要メンバー
来日ロシア人研究会の主要メンバー - Sputnik 日本
来日ロシア人研究会の主要メンバー

澤田氏によれば、白系ロシア人が生計を立てる手段としては、まず羅紗(らしゃ)や洋服の行商があった。和服から洋服へ日本人の普段着が移行するにあたって、白系ロシア人はこれを促進した。バレエ、ピアノ、バイオリンを教えて優れた弟子を育てたのも彼らだ。エリアナ・パヴロワは、日本バレエの母とも言われている。1913年に開校したばかりの宝塚音楽学校で、ダンスや歌の教鞭をとった人もいた。スポーツ界では日本で初めての外国出身プロ野球選手となったヴィクトル・スタルヒン、製菓業界では高級チョコレートを日本にもたらしたフョードルとヴァレンチンのモロゾフ父子やマカール・ゴンチャロフといった人々が有名である。

著名人を挙げればきりがないが、スプートニクは澤田氏に依頼し、白系ロシア人の中でも、その功績を知っておくに値する人物を二人教えていただいた。彼らの生涯をご紹介しよう。

一人目は、ニコライ・マトヴェーエフ。1865年生まれの函館出身で、詩人・ジャーナリスト・編集者として多岐にわたり活躍した。彼はロシア人として初めて、日本で生まれたと言われている。父は函館のロシア領事館で働く准医師だった。父の死後ロシアへ戻ったマトヴェーエフは、ウラジオストクで様々な新聞社・雑誌社と組んで活躍し、市会議員にもなった。彼はカデット(立憲民主党)党員だったが、十月革命後、ボリシェヴィキにより「人民の敵」とみなされ党は活動を禁止されてしまう。身の危険が迫る中、マトヴェーエフは祖国を離れざるを得なくなり、1919年に日本へ亡命した。まずは大阪、そのあと神戸に居を構えた。ロシア語の本の出版所を作ったり、子どものための本を書く傍ら、生計のため古書販売も手がけた。生涯を通じてジャーナリズムと文学に関わったマトヴェーエフは、1941年、75歳で亡くなった。ロシアの歴史学者アミール・ヒサムトヂノフ氏によれば、マトヴェーエフは長く病床についており、日本人の友人たちは彼のために治療費を集めただけではなく、子だくさんだったマトヴェーエフ家の生活費までも工面したという。それ程、人望のある人物だったのだろう。彼は今、神戸外国人墓地で眠っている。

© 写真 : 『日露交流都市物語』よりマトヴェーエフと長男ゾーチク
マトヴェーエフと長男ゾーチク - Sputnik 日本
マトヴェーエフと長男ゾーチク

もう一人は、ミハイル・グリゴーリエフだ。彼は白系ロシア人の中でも抜群に日本語が堪能で、翻訳者として活躍した。彼の生涯はその語学力故に、非常に数奇なものになった。若き日のグリゴーリエフはチタ(東シベリア南部の都市。日本軍のシベリア出兵によって1918年9月に日本占領下となった)の陸軍士官学校で日本語を学び、日本国陸軍特務機関の通訳となった。1920年、彼が21歳のとき、日本軍撤退が現実化するにおよび、日本人大佐の手引きで日本へ出国した。シベリア出兵は、日本に全く国益をもたらさなかった外交上の大失敗だと言われているが、澤田氏は「結果的に見ればグリゴーリエフの活動は、数少ない成果のひとつ」と話す。グリゴーリエフは日本人女性と結婚し、日本国籍を取得。翻訳家、音楽家、教師として活躍した。1938年、ハルビンへ移住し、南満州鉄道株式会社に籍を置く。この時代、彼は露文総合雑誌「東方評論」に、谷崎潤一郎「陰翳礼讃」、川端康成「高原」、夏目漱石「坊つちやん」といった作品の露訳を提供し、日本文学の浸透に大いに貢献した。グリゴーリエフは古文も漢文も訳すことができ、和文露訳の巧みさは誰もが賞賛したという。しかし彼は44歳の若さで、大連で人力車に乗っていたところ、路上に倒れて急死した。秘密を知りすぎて殺されたという説もあれば、過労死、心臓病だったという説もある。

澤田氏は、「亡命ロシア人の足跡をたどることは、思いの外、深みと広がりをもった仕事です。歴史は、人と人との地味なつながりが積み重なったもの。これからもこの仕事を続けていきます」と、研究のやりがいを話している。

© 写真 : 『白系ロシア人と日本文化』グリゴーリエフ夫妻
グリゴーリエフ夫妻 - Sputnik 日本
グリゴーリエフ夫妻
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