敗戦を迎えて武装解除された日本兵が抑留され強制労働させられた事実は、一般にシベリア抑留と呼ばれているが、実際はシベリアだけでなく、ソ連全域とソ連が支配していた地域にも及んでいた。タンボフはモスクワから約460キロ南に位置し、ヨーロッパ・ロシアに属する地域であるが、ここにも収容所があり、日本人捕虜はケーブル線埋没用の壕を掘らされていた。
筆者は露日友好協会タンボフ支部長のヴャチェスラフ・フェドートフさんを通して、日々の過酷な労働の中でも日本人の誇りをもち、ついに無事に帰還した人物について知ることとなった。1920年(大正9年)生まれの志水實一(しみず・じついち)さんだ。
實一さんは満州で終戦を迎えて捕虜となり、豪雪の中での森林伐採に丸一年従事した後、がさがさに痩せた生き地獄状態でタンボフに送られた。配給の食糧がピンハネされ、「いかにサボり、体力を温存するか」ということが日常の心がけになっていたある日、實一さんは村中という名の一等兵に出会う。彼はひどい身なりをしていたものの、毅然とした態度をとり、目が輝いていた。村中一等兵は志水さんをこう諭した。
「私たちは負けない。なぜか?それは我々は捕虜ではなく、日本人だからだ。どうです、あなた方も、もういい加減に捕虜を卒業したら。なぜ心まで捕虜にならなければいかんのです?大事なことは目的意識の自覚です。あなた方はこの自覚を喪失している。捕虜として敵の仕事をさせられている、この考え方に根本的な間違いがあるんです。戦いに敗れたからといって日本人の希望まで奪い去られたと思うのは大間違いです」(志水實一さんの手記より)
村中一等兵の言葉に感銘を受けた實一さんは、仲間6名とともに態度を改め、日々の労働の目標を定めて、「これは強制労働ではなく自分のトレーニングだ」という気持ちで作業にあたることにした。歌で自分たちのやる気を鼓舞し、作業終了の時間になっても、目標を達するまでは食事を取らなかった。すると、意地悪だった監視兵が實一さんたちに敬語を使い始め、いつしかその監視兵もいなくなり、食事の量も増え、行動も自由になった。それでもサボらず明るく作業をしていると、實一さんたちは近所のベアリング工場の所長にスカウトされ、比較的軽労働を行うことができるようになった。實一さんたちの日本帰還の際には、収容所長が丁寧に別れの挨拶をしてくれた。實一さんは祖国で実業家として成功し、2012年に91歳で天寿を全うした。
實一さんの長男で、神戸に住む会社員の志水通男(しみず・みちお)さんは、父の死後2014 年に露日友好協会タンボフ支部長のフェドートフさんから突然手紙をもらった。タンボフに住むエミリヤ・エルマコワさんというロシア人女性が、生前の實一さんと親交があり、本人から肖像写真をもらったので、それを遺族に返したがっているというのである。エミリヤさんは当時10歳、實一さんは25歳だった。日本の親切な兵隊たちとの交流は、エミリヤさんの中で温かい思い出として残り、68年間も写真を大事にしまってきた。
「タンボフに来てほしい」と映画祭のチケットも入っていたが、通男さんはあまり行く気がしなかった。ロシアになったとはいえ、ソ連のイメージはとても悪かったので、写真だけ送ってもらえればいいと思ったのだ。しかし後日、ロシア語のできる知人の助けで、手紙に同封してあったロシア語の記事を読み、気が変わった。通男さんは「この記事に感銘を受け、ロシアへの悪しき偏見がなくなった」と話す。それは1993年のタンボフ州内務局(日本で言うところの地方警察)広報紙に掲載された「優しさの記憶」というコラムで、警察官僚のチェルヌィショフさんが書いたものだった。そこには、實一さんを含む日本人捕虜らが民家の中庭で昼休みに休憩をとり、礼儀正しく親切に振舞い、子どもたちと交流していたという姿が好意的に描かれていた。子どもたちは日本人に憎しみを抱かず同情の心で接し、砂糖をまぶしたパンやジャガイモなどを持って行ってあげていたのだ。
こうしてタンボフ行きを決意した通男さんは、タンボフの映画祭でエミリヤさんと対面。エミリヤさんと映画を見たり、フェドートフさんと食事したり、現地メディアの取材を受けたりして、楽しい時間を過ごした。
通男さん「フェドートフさんが父の写真を編集してくれ、大きな看板になっていました。エミリヤさんの話では、もらった写真を今になって返す気持ちになったのは、日本人なら写真を大事にしてくれると思ったからだそうです。日本の兵隊さんは勤勉で明るくて友好的で、強烈な印象として記憶に残ったそうです。チェルヌィショフさんは他界してお会いできませんでしたが、タンボフの人々の温かいもてなしを受け、ロシア人に親近感を感じました。この縁を大切にしていきたいと思います」
タンボフを訪問したおかげで意外な事実も明らかになった。實一さんたちがエミリヤさんたち小学生と出会ったのは、村中一等兵に出会う前だったと判明したのだ。通男さんは「日本兵の立派な態度は村中一等兵との運命の出会いの結果」だと思い込んでいたが、そうではなかった。父・實一さんはもともと勤勉で礼儀正しい人物だったのだ。
初めてのロシアで大変なこともあった通男さんだったが、帰国後はすっかりロシアが気に入り、日露関係のイベントに参加するなど、積極的にロシア人との交流を深めている。