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貴族の娘マルファ・ソバーキナは2000人が応募した初の国家「古代ロシア美女コンクール」で見事勝利し、イヴァン雷帝の3番目の皇紀となった。残念ながら、結婚式の2週間後に嫉妬に駆られた者らにより毒殺された。
アレクサンドラ・ストゥルイスカヤは裕福な商人の妻で「ロシアのモナリザ」と呼ばれている。画家フョードル・ロコトフの筆による彼女の肖像画はロシア絵画の珠玉。彼女は長寿を謳歌し、幸せな人生のうちに18人の子どもを産んだ。
「ロシアのシンデレラ」とも呼ばれるプラスコヴィヤ・ジェムチュゴワはシェレメチェフ伯が作った農奴による劇場の女優だった。その美貌と魔法のようなソプラノの声により、ニコライ・シェレメチェフ伯はジェムチュゴワと恋に落ち、皇帝の許可を得ずに結婚した。
ナタリア・ゴンチャロワはすでに15歳でモスクワきっての美女と認められ、19歳で偉大なロシア詩人のアレクサンドル・プーシキンの妻になった。ナタリアはプーシキンとの幸せな結婚生活を6年送り、その間に娘と息子を2人ずつ産んだ。1837年、プーシキンはナタリアの名誉を守るために挑んだ決闘で早逝した。
15歳のグルジア人美人、ニーナ・チャフチャワゼは熱烈な恋愛から父の友人である33歳のアレクサンドル・グリボエードフと結婚。しかし結婚生活はわずか数ヶ月しか続かなかった。グリボエードフはロシア大使としてペルシャに送られ、陰謀に巻き込まれて殺害された。ニーナは人生を終えるまで30年間、毎日欠かさず墓に詣で、「あなたの賢さと行ったことはロシアの記憶の中で永遠に消えることはありません。ですが私の愛は何のためにあなたを覚えたのでしょうか」と墓に書いたと伝えられている。
ワルワーラ・アセンコワは若く才能のあるアレクサンドルスキー劇場の女優で、夥しい数の熱烈なファンと同時にそれに劣らぬ数だけの人に嫉妬に呼んだ。そんなアセンコワがサンクトペテルブルクきっての舞台のスターとして活躍したのはわずか6年間。結核で短い24年の人生を閉じた。
男爵夫人ユリア・ブレフスカヤは輝かしいロシアの将軍である夫が亡くなったあと、皇后の侍女となった。1877〜1878年の露土戦争中、ユリアは修道女となって戦地で負傷兵らを介抱し、ブルガリアの小さな農村でチフスにかかって亡くなった。
マチルダ・クシェシンスカヤは皇室マリインスキー劇場のプリマ・バレリーナで皇帝ロマノフ家の男性と関係を持った。マチルダは、今日ロシアバレエの神髄とされているターンの一種、32回転フェッテを最初に成功させたことで有名。
ロシア初の無声映画スター、ヴェラ・ホロドナヤはロシア社会のあらゆる階層の市民の熱狂的な人気をさらった。ところがインフルエンザに罹って26歳で早世。ガラスの棺桶に埋葬された。
教授の娘ラリーサ・レイスネルは「革命のヴァルキリー」と呼ばれていた。1918年、若き詩人でジャーナリストだったレイスネルはボリシェヴィキ党に入党。内戦の時代には赤軍将校となった。彼女の美しさは友人も敵も認めるほどの強い磁力を持っていたといわれている。30歳で、無殺菌の牛乳をわずか1杯口にしたことが原因でチフスに罹り、亡くなった。