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同氏は露中関係および露日関係をはじめとしたロシア外交の発展に多大な貢献をした。
才能豊かな中国専門家だったチフヴィンスキー氏は、当時20歳だった1939年に開かれた露中首脳会談の時に外交分野でのキャリアをスタートさせた。
チフヴィンスキー氏はモロトフ、ヴォロシロフ、ミコヤン、ポチョムキンなどのソ連の主要政治家が居合わせる中でスターリンの通訳を務めた。
その後、在英ソ連大使館の外交官として1955年6月にロンドンで始まったソ日国交回復交渉に参加した。
これを考慮し、外務省上層部はチフヴィンスキー氏に日本での勤務を提案した。1956年5月、チフヴィンスキー氏は東京のソ連代表部長に任命された。
ソ日共同宣言の批准後、チフヴィンスキー氏は1956年12月14日の在日ソ連大使館の開設を日本外務省に通知した。その後、同氏は在日本ソ連大使館の公使参事官となった。