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オペラ制作の構想が生まれたのは約50年前。声楽家の青木英子さんは、日本を題材にしたオペラを作ろうと考え、大黒屋光太夫の実体験を元にした文献「北瑳聞略」からインスピレーションを得た。英子さんは、自分の理想を形にするのにふさわしい音楽家を何年にもわたって探し、とうとう見つけたのが、アゼルバイジャン出身のファルハング・グセイノフだった。
そこで、英子さんとグセイノフの通訳をしていた歌手のニキータ山下さんは、光太夫の魅力についてグセイノフに語った。アリアの歌詞は山下さんが日本語からロシア語に翻訳し、日本初・全編ロシア語のオペラが完成した。英子さんは「ニキータがいなければ、このオペラはできなかった」と、絶えず話していた。
オペラは、日ソ友好条約締結を視野に入れてモスクワで上演されるはずだったが、ペレストロイカ・ソ連崩壊など立て続けに政情が変化して実現できず、日本国内で歌唱のみのコンサートを開くにとどまった。英子さんは、オペラの初演を待つことなく、2010年に92歳で亡くなった。
亡き母の夢を実現しようと動き出したのは、息子の青木義英さんだ。義英さんは、モスクワ・アマデウス音楽劇場の日本人ソリストである平岡貴子さんの紹介で、同劇場のオレグ・ミトロファーノフ芸術監督と出会った。監督は、「私は日本が大好きで、日本を表現できると思います。私に全て任せてくれますか?」と義英さんに聞いた。
青木義英さん「私は、オペラの上演が真の日露交流につながるのなら、著作使用料を無償で提供しようと考えていました。そこで監督に、『あなたの思った通りに表現してください。ただし、若い人にこのオペラを見るチャンスを作ってほしい、若い人を巻き込む演出にしてほしい』という条件を出しました。結果、劇場だけでなく学校、図書館でも公演してくれることになり、監督は条件を守ってくれました。本当にたくさんの人にお世話になって今日という日を迎えられ、母の夢だったロシア公演が叶い、本当に嬉しいです。でも、これは最初の第一歩。夢はまだ、これから続きます」
主役の光太夫を演じたのは、ボリショイ劇場やノーヴァヤ・オペラ劇場で人気を誇る、バリトン歌手のアンドレイ・ブレウスさん。大の親日家で、何度も日本で舞台に立っている。もともとブレウスさんと仕事をする機会の多かった平岡さんは、人柄や声質など全てを考慮し、主役にふさわしいのは彼しかいないと考え、出演を依頼した。
ブレウスさん「光太夫を演じないかと話が来たとき、彼について全く知らなかったので、歴史を勉強し、外交文書を読み、なぜこの話がロシアで知られていないのかと驚きました。この話はロシア人だけでなく世界中が知るべきです。光太夫はロシア語を習得しとても賢く、愛国心に満ちています。こういう人物を演じられる機会は役者人生の中でもなかなかありません。今後も私の胸の中に、光太夫の場所が残ることでしょう」
光太夫の帰国を認めたエカテリーナ二世を演じたのは、ボリショイ劇場のソリスト、エレーナ・オコリシェワさん。毎年日本を訪問している親日家で、モスクワ音楽院では日本人を始め後進の指導にあたっている。エカテリーナ二世は光太夫に同情し、未知の国・日本を想って「桜の花咲く遠い国」を唄う。
筆者は、オペラを鑑賞した人に感想を聞いた。
30代男性アルカージーさん「光太夫が、ロシアと日本の役に立とうと思って帰国したのに、日本で光太夫が受け入れられなかったシーンが意外で、印象に残りました。日本にとっては鎖国という厳格なルールの方が、光太夫の考えよりもずっと大事だったということに驚きました」
40代女性アイーダさん「光太夫のことは全く知りませんでしたが、日本文化が好きなので、どんな話かと思って来てみました。音楽もストーリーも素晴らしく、日本に行ってみたくなりました」
モスクワ在住の日本人男性「ロシアでオペラを見てもイタリア語などが主なので、全編ロシア語のオペラはロシア人にとっても新鮮だったのではないでしょうか。ロシア人が演じる光太夫を見ることができて嬉しかったです」
オペラは「ロシアにおける日本年」の公式認定事業となっている。構想から上演に至るまで長い歳月をかけ、人々の努力と熱意の集大成となった「光太夫」は、これからも日本とロシアの絆をより強くしてくれるだろう。来年には、群馬県でコンサート形式での公演も予定されている。