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田中さんは1927年8月16日、北海道遠別町に生まれた。1943年、若干16歳の田中さんは、関係が上手くいっていなかった継母を避ける形で関東軍に志願して入隊した。1944年彼は砲弾の破片で負傷し、片眼の視力を失っている。そして1945年8月、ソ連軍の捕虜となり、中国からハバロフスクに送られた。彼はそこで8年間森林伐採業に従事した。その後捕虜の解放が始まり、兵士たちは船で日本に帰還した。一方、祖国に帰ってから絞首刑や銃殺に処されるとの懸念から、田中さんは同地に留まることに決めた。
1960年代半ば、田中さんはレニングラード州に渡り、ソフホーズ(国営農場)「フョードロフスコエ」で働いた。1970年代、田中さんは日本の親族を見つけたいという希望を捨てきれず、レニングラードの日本総領事館を通じて親族の所在調査を依頼していた。好ましい返事は得られなかった。第2次世界大戦終結から70有余年が過ぎ、年金生活に入っていた田中さんは我々の取材を受け、「桜の咲くところを、せめて残ったこの片目で見てみたい」と語っていた。2017年秋、田中さんの夢は半分叶った。北海道に渡り、親族と再会することができた。
今春、日本では再びタナカさんの帰国が待たれた。抑留研究に取り組んでいる成蹊大学の富田武名誉教授が「スプートニク」などの助けを借りて招待状を渡そうとしたが、田中さんの電話は応答しなかった。
生前最後のインタビューで、田中さんはこう述べている。
「私は90歳になった。やりたいことは特にない。けどね、今の若い人たちには戦争が二度と起こらないよう願っている。桜は咲くべきだけど、戦争はあってはならないよ。」
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