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«Bone music»
「目を閉じて、好きな曲を考えてください。どんな曲でも、今なら200〜300円で簡単にインターネットで購入し、好きなだけ聴けるに違いありません。では今度は、今日からその曲の鑑賞が禁じられたと想像してください。この音楽を再び聴くため、どれだけ支払えますか?」と展覧会のキュレーターで音楽家のスティーヴン・コーツ氏は訪れた人に問いかける。
数年前にコンサートのためロシアのサンクトペテルブルクを訪れたコーツ氏は、蚤の市で奇妙なものを見つけた。中心に穴の空いた円状のレントゲン写真だ。これは手製のレコード盤で、米ミュージシャンのビル・ヘイリーによるカルト的人気を誇った曲「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が録音されていた。
コーツ氏とその友人、ポール・ハートフィールド氏はこの珍しいレコードの歴史に関心を持った。広範な研究を行い、初めて「ボーン・ミュージック」の現象の調査に取りかかった。調査の結果はドキュメンタリー映画、書籍、展覧会となり、東京で開催中の展覧会もその一部だ。
「今日彼はジャズを演奏し、明日には故郷を売り払う」
コーツ氏によると、「ボーン・ミュージック」現象がソ連で発生したのは40年代末。冷戦開始と同時期だった。それまでソ連で音楽に対する厳しい検閲は存在しなかった。だが社会主義陣営と資本主義陣営の対立開始とともに、ジャズをはじめとする全ての西洋音楽が禁止された。「今日彼はジャズを演奏し、明日には故郷を売り払う」とは、あるソ連プロパガンダのスローガンだ。そうでなくとも不足していた流行りの海外アーティストのレコード盤は、完全に音楽店から姿を消した。ジャズやロックンロールへの愛に対し、懲役刑のおそれもあった。それにもかかわらず、50年代のソ連の若者の間の米国の「ブルジョア」音楽人気は熱狂的だった。
ボーン・ミュージック、ないし肋骨レコード誕生は、レニングラード(現サンクトペテルブルク)の2人の熱狂的な音楽愛好家に負うと考えられている。ルスラン・ボゴスロフスキーとボリス・タイガの2人は1947年、手に入る素材から録音装置を作り、非合法なスタジオを開いた。戦後、レコード盤の材料は高価で調達が難しかった。だが、レントゲン写真が音楽録音に最適だと判明した。非合法にレントゲン写真を購入ないし物々交換することは、ほぼ全てのレニングラードの病院で可能だった。そうして、肋骨骨折からはエルビス・プレスリーの声が、足首の捻挫からはルイ・アームストロングの声が流れ出た。
レントゲン写真1枚につき録音できたのは3.5分未満の曲1つだけだった。概して音質は悪く、ノイズから音楽を聴き分けることが不可能だった。何度も再生すると溝が擦り切れて、再生可能回数は平均で15〜20回に過ぎなかった。
「人間の痛みのイメージに記録された喜びの音」
ボーン・ミュージックを作り出したボゴスロフスキーは非合法に「敵性」音楽を製造し、広めたことで少なくとも3度逮捕された。だが懲役でくじけるどころか、この活動を続ける意思は強まるばかりだった。当初、ボーン・ミュージックを聴いていたのはレニングラードの熱狂的な音楽ファンの狭い輪だった。だが時が経つに連れ、この技術はソ連全土に広まった。レコード盤制作者だけでなく、鑑賞者、レントゲン写真を提供した医師さえ逮捕されたが、人びとは禁じられた音楽を諦めなかった。
この文化的現象は1970年代、テープレコーダーの出現とともに終わった。音楽はオーディオカセットに録音されるようになり、「ボーン・ミュージック」に関する記録はほとんど残らなかった。この記事を執筆する私をふくむ現代ロシアの若者の多くは、肋骨レコードについて祖父母から話を聞くことはあっても、自分の目で見たことはない。
コーツ氏は「ボーン・ミュージックは、人間の痛みを写したイメージだが、そこには喜びの音が録音されている。この歴史は音楽が無上の価値を持つことを良く思い起こさせる。私たちは、好きな音楽を聴く唯一の手段がレントゲン写真に録音することだった時代について覚えておく必要がある」と述べた。
「ボーン・ミュージック」は5月12日まで、Ba-tsu Art Galleryで見て、聴くことができる。