© 写真 : Public domain対馬沖海戦
対馬沖海戦
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実は、日本は開戦前の試算で戦費調達は1年が限界とふんでいた。
決裂すれすれで長い論争が繰り広げられた末に、日本側は一連の講和要求を取り下げた。
ロシア側が獲得したものとは?
合意内容は以下の通り。
- ロシア帝国は、日本が大韓帝国の同意を得ずに、その主権に触れる措置はとらないことを条件に、朝鮮半島における日本の国益を認める。
- 満州からは日露の両軍ともが撤退する。
- ロシア帝国は、旅順、大連および南満州鉄道の租借権を日本に譲渡する。
- ロシア帝国は、サハリンの大部分の面積に対する領有権を手元に残し、日本には、南サハリン(サハリンの北緯50度以南)および付属島嶼に軍事要塞を建設しないという条件で、これを割譲する。
- この条約は日露両国の貿易関係の確立と捕虜の交換方法を規定する。
CC BY-SA 3.0 / World Imaging / Japan_Russia_Treaty_of_Peace_5_September_1905ポーツマス条約
ポーツマス条約
CC BY-SA 3.0 / World Imaging / Japan_Russia_Treaty_of_Peace_5_September_1905
そしてロシア代表は、賠償金の支払い義務の放棄を日本に認めさせた。日本は逼迫した財政にあえぎ、賠償金の獲得に大きな望みをかけていたにも関わらず、ヴィッテ首相の交渉の粘り勝ちで賠償金放棄を余儀なくさせられた。逆に講和が成立せず、戦争が続行した場合、日本の国家財政にさらなる大きな打撃を蒙りかねなかったからだった。(帝国書院の統計資料によると、日露戦争の戦費総額は18億2,629万円)
条約締結の結果
もちろん、講和内容はロシアにとって厳しいものだった。「屈辱的な」ポーツマス条約に調印し、サハリンの半分を譲渡したヴィッテ首相は、その指導力に対する不満から「ポルサハリンスキー(サハリンの半分野郎)」との揶揄するあだ名をつけられた。
しかし、全体を見てみれば、ロシアは戦争に負けたにも関わらず、ヴィッテ首相の尽力により講和条件を大きく譲歩させ、最小限の損失で戦争から抜け出すことができた。長期的な視点に立つと、講和条約の締結によってロシア政府は革命の機運抑制に注力できたのである。
一方の日本では、帝国主義者らが条約締結に強い不満を示し、戦争の再開と小村外務大臣の辞任を要求した。これにより東京では一時、日比谷焼打事件に代表される暴動が荒れ狂った。
社会主義革命で誕生したソビエト新政府は、1925年、日本との外交関係を樹立した際にポーツマス条約の法的な効力を認めた。しかし1945年、第二次世界大戦の日本敗戦により同条約は失効した。