14歳でモスクワへバレエ留学
現在27歳の砂原さんは、すでに人生の半分をロシアで過ごしたことになる。バレエが大好きで、バレエしかやってこなかった少女時代、砂原さん自身はウィーン国立バレエ団に憧れていた。しかし寮などの問題から留学を断念。ロシアバレエが大好きな母親の影響で、留学先はロシア一択だった。砂原さんは「今思えば、どこか英語圏に行っておけば良かったですね。独身だったらヨーロッパに行きたかったな」と、冗談交じりに話す。
砂原さんは留学生クラスではなく、ロシア人の生徒たちと一緒に正規のプログラムで学んだ。体型が変わったり、実力が足りなければ途中で退学させられる厳しい世界で、砂原さんは最終学年まで残ることができた。ところが卒業試験を間近に控えたタイミングで腎臓を患ってしまい、手術を受けた。術後、1か月もたたないうちに、卒業試験を強行突破し合格した。そこまでして卒業したかったのは「いじめられたこともあったし、親に経済的な負担をかけたくないのもあって、もう一年ここにいるのは耐えられなかった」からだ。
卒業後、地方の国立劇場に採用されたが、砂原さんによれば「当時の地方のバレエのレべルはひどかった」そうだ。ショックを受けた砂原さんは、間をおかずモスクワに戻ることにした。モスクワでは私立のバレエ団に入り、海外公演などで忙しい日々を過ごした。ただし私立のバレエ団は就労ビザを出してくれなかったため、常に外国人としての諸々の手続きの問題がつきまとっていた。
ビザの問題に疲れた頃、一時期日本に拠点を移し、モスクワ国立舞踊アカデミーの大学で、バレエ教師の資格を取得した。大学の試験やゲストダンサーとしての仕事もあったため、日本とロシアを頻繁に行き来する生活だった。日本にいる間は一般の仕事についたこともあったが、デスクワークが性に合わず、熟慮の末にロシアに拠点を戻すことにした。
人生を変えたサランスク、結婚そして出産
砂原さんはモルドヴィア共和国サランスクの劇場で、バレリーナとしてのキャリアを再スタートさせた。サランスクといえば、昨年のサッカーW杯ロシア大会で日本戦が行なわれ、日本人の間でも知られるようになった。砂原さんは、ここで「せむしの仔馬」のタイトルロールなど、数々の舞台で主要な役を演じた。
プライベートでも大きな変化があった。サランスクで、地元の男性・セルゲイさんと知り合い、結婚したのだ。日本人バレリーナの結婚や日露カップルの新婚生活については、現地メディアがこぞって取り上げた。しかしある日、流産したことに気付いた。砂原さんは当時の心境を「踊っていて気がつきませんでしたが、実は知らない間に流産していて…。人を殺したと思って、泣いてしまいました。それで、自分は子どもが欲しいんだ、と分かりました」と振り返る。
妊娠してからロシアが嫌いになった
流産してから治療を受け、ふたたび妊娠することができた。20代半ばという、バレリーナのキャリアの絶頂で妊娠・出産することに抵抗はなかったという。それには周囲の影響が大きかった。
出産そのものよりも、妊婦生活はずっと大変だった。特に辛かったのは、検査のため、身重の状態で町中の病院をたらいまわしにされたことだ。
「衛生状態もよくないし、電話で予約できず、予約ノートに書きに行かないといけなかったり、予約時間に行ったのに医者がいなかったり。4時間待ったこともあります。妊娠前はロシアが好きでしたけど、妊娠したら嫌いになっちゃいました。ロシアの公務員としてロシア人と同じ給料で働いていたら、日本人が行くような病院には行けません。そして一般の病院に行ってみれば、私はロシア人ではないので、ロシア人よりもひどい扱いを受けます。これじゃあ、何も良いところがないなって…。娘に兄弟を作ってあげたいけど、ロシアで妊婦生活はもうしたくないです。」
舞台に復帰:バレエは芸術か、それとも単なる「仕事」か?
サランスクで出産し産後休暇を取った砂原さん。そのまま復帰も考えたが、劇場を運営するモルドヴィア共和国がサッカーW杯に巨額の資金をつぎ込み、予算不足でバレエ公演数が激減したことで、出演料がほとんど入らなくなってしまった。また、サランスクで一番信頼していたバレエ教師が他の劇場に移籍してしまったことも、砂原さんが劇場を去る引き金になった。
2019年3月、サラトフのオペラ・バレエアカデミー劇場へ移籍し、舞台復帰した。ロシアに数ある国立劇場の中でも「アカデミー」と名のつく劇場はランクが高く、公演数も多いため、サラトフを選んだ。ビデオ審査ですんなり通過し、これまでロシア人と踊ってきたという信頼もあったので、移籍には何の問題もなかった。
ただしどんな環境にあっても、日本人のダンサーは勤勉でストイックだ。誰もが、昨日より今日、少しでも上手く踊りたいと思っている。
「自習は一人だけでやっています。ただ、私だけではなくて、ロシアの各地で頑張っている日本人の先輩や後輩の様子をSNSで見ていると、みんな同じような状況で、一人で自習してるんです。バレエの喜びは、練習をたくさん重ねて、その役について考えて考えた先にあるものだと思います。でも今の劇場では、練習場所が一つしかなくてほとんど空いておらず、それが予想外でした。」
もうすぐ1歳半になるエカテリーナちゃん。砂原さんは子どもにバレエはさせたくない、と話すが、バレエに親しむ環境はばっちり整っている。
「まだ幼稚園に行ける年ではないので、子どもをバレエ団に連れて行くと、みんなが面倒をみてくれます。例え大人同士で仲が良くなくても、子どもに対しての感情と、その親に対する感情は別のものなので、子どものことは可愛がってもらえます。これがロシア人の良いところです。」
サラトフの劇場には、砂原さんが大ファンだというプリマバレリーナ、クリスティーナ・コチェトワさんがいる。コチェトワさんにも子どもがいる。砂原さんは「彼女はとても綺麗なんです。彼女が同じ劇場にいることが、一番のモチベーションになっています」と言う。
将来は日本で指導者に
昔から、バレリーナとしてのキャリアを終えたら、バレエの先生になるという強い気持ちがあった。実際、一時期日本に拠点を移していたときは、子どもたちの指導も行なっていた。砂原さんの妥協しない指導には定評があり、レッスンは予約でいっぱいだった。
「ボリショイバレエ学校留学中も、その日にやったレッスンのコンビネーションを毎日ノートに書き続けていました。いまだにそのノートを持っています。教えるのが好きで、その方が自分には合ってるのかなと思うくらいです。何か間違ったことを言えば、子どもはすぐにそれをやってしまうので、責任を感じます。自分が踊るときはここまで頭は使わないですね。最近は、もうちょっとバレリーナとしてやっていける、と思う気持ちもあれば、精神的にも限界なのかもしれない、と思う時もあります。」
インタビューで砂原さんは、現役を続けるかどうか、揺れる気持ちを吐露してくれた。ただ、「指導に専念するときは、日本に帰国するとき」だとはっきり決めている。砂原さんにとってキャリアの選択は、ロシアと日本をまたいだ、人生の選択そのものなのだ。