パイロットや狙撃兵、看護師-第2次世界大戦で旧ソ連の女性はどう戦ったか

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リュドミラ・パブリチェンコ - Sputnik 日本
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第2次世界大戦で女性が直接軍事行動に参加した国は、世界でも旧ソ連だけだった。戦争の初期段階で甚大な数のソ連兵が戦死し(公式な統計で約2700万人)、祖国が困難に陥ったことを知った女性たちは志願して軍の行動に参加し、前線に赴き、男性と同じように戦った。

女性たちは人員不足の義勇軍やゲリラ部隊を補い、陸上や海上、空中で男性に代わって任務を遂行し、戦った。

ジュルバール - Sputnik 日本
犬に猫さらにラクダまで 第2次世界大戦に従軍した四つ足の「兵士」たち
女性の動員

旧ソ連軍にはじめて女性の戦闘部隊が登場したのはまさに第2次世界大戦の最中だった。1942年、女性の大量動員が3回行われた。1回目の動員では10万人の女性が対空防衛の任務に割り当てられた。2回目には3万人の女性が前線に送られた。これは通信部隊での任務遂行のためだった。3回目は空軍の男性兵との交代のため4万人の女性が招集された。動員された女性の一部には1ヶ月半から2ヶ月の訓練が実施され、その後、前線に派遣された。他の女性たちは奉仕隊に割り当てられ、招集後ただちに任務にあたることになった。

男性は実質的に全員が招集されたのに対し、女性には年齢(18—25歳まで)や教育(必須条件は中等教育卒)といった制限が設けられ、最後の女性の動員では子どもおよび家族がいないことが条件とされた。

戦時中、前線で女性は基本的に軍事医療機関や通信部門(80%)、そして道路建設などを行う部隊(事実上、人員の半数)に配属された。また、それとは別の部類の部隊に派遣された女性もいた。

戦車兵

実際には戦中に戦車兵として働いた女性が20人近くいたこと、そしてそのひとりひとりが映画や本の主人公になれるような活躍をしていたことはどこにも記録されていない。

アレクサンドラ・ラシュプキナは旧ソ連版「ムーラン(老病の父に代わり男装して従軍・活躍した娘の物語)」といえた。ラシュプキナは旧ソ連ウズベキスタンで女性として初めて戦車の操縦を完璧に習得したが、だからといってどう頼み込んでも前線への派遣希望は受け入れてもらえなかった。

アレクサンドラ・ラシュプキナ
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アレクサンドラ・ラシュプキナ

そのため彼女は巧妙な手段を使った。髪を短く刈り、男性の服を着て、軍事委員部に赴いたのだ。その当時(1942年)、全国的に書類の扱いに混乱が生じていたため、新しい「志願兵」のパストートの確認が行われず、ラシュプキナは男性として前線に送られることとなった。

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アレクサンドラ・ラシュプキナ

ラシュプキナはスターリングラード攻防戦に従軍し、また、ワルシャワ蜂起にも参戦した。3年間、戦車の搭乗員や同じ連隊の他の仲間の誰もラシュプキナが本当は女性であるとことに気が付かなかった。この秘密が明かされたのは1945年の2月。ラシュプキナが操縦していたT-34戦車が攻撃を受け炎上し、彼女は挫傷、太股に重傷を負った。入院中にラシュプキナが女性だったという情報が司令部にまで届き、大問題となった。勇敢な戦車兵を罰しないため、ラシュプキナの指揮官だったワシーリー・チュイコフ元帥自らが擁護を行うこととなった。

「夜の魔女たち」

飛行士のマリーナ・ラスコーヴァは開戦前の段階ですでに飛行記録の樹立に成功していた。ラスコーヴァは1937年に飛行隊の一員として遠距離飛行で世界記録を打ち立てた。翌1938年にはそれをさらに更新。同年、さらに約6500キロメートルという記録が樹立された。モスクワから極東までの横断飛行。飛行の終わりに彼女は飛行機から緊急脱出を余儀なくされ、人っ子一人いないタイガの奥地に降り立った。10日後にやせこけた姿で見つかった彼女が、脱出時に持ち出すことができた食料はチョコレートだけだった。

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飛行士のマリーナ・ラスコーヴァ

開戦とともにラスコーヴァには正規の女性飛行連隊を創設するというアイデアが浮かんだ。何度も記録を打ち立てたラスコーヴァを頂点とし、3隊(2つの爆撃隊と1つの戦闘隊)からなる飛行隊が創設された。

ラスコーヴァの女性飛行連隊(第46近衛夜間爆撃航空隊)で活躍した彼女らのエピソードは似通っている。その誰もが飛行隊にとことん魅了され、開戦当初から前線に出ることを志向していた。

ラスコーヴァ自身は1943年1月に戦死したが、彼女の航空隊は戦争の4年間に約1000回出撃し、敵基地に数十トンの爆弾を投下した。その際、彼女たちが使用したのは軍用機ではない木製の複葉飛行機Po-2であったが、これにドイツの防空軍はほとんど対応できなかった。

元女性飛行士のエフゲニア・ジグレンコは回想録にこう書いている。「ドイツ軍は私たちを『夜の魔女たち』と呼んでいました。でもその魔女たちはわずか15歳から27歳の若さだったのです。」

狙撃兵

狙撃兵には独自の利点があった。兵士らと共に攻撃に参加する必要はないことだ。相手から発見されないように腹ばいになって身を隠し、敵の隙をつく。ただ、1つ大きな弱点があった。それは彼らは捕虜にされることはなかったということだ。狙撃兵は他の兵士とは異なり、命の危険に晒されることは稀だ。だが、敵には一番に狙われる。見つかって、最初に撃ち殺されるのは狙撃兵だった。

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リュドミラ・パブリチェンコ

第2次世界大戦でもっとも有名な女性狙撃兵はリュドミラ・パブリチェンコだ。彼女は戦争が始まる前まで射撃の教育を受けており、1941年に志願して前線に赴いた。重傷を負ったパブリチェンコは前線での任務を外され、1942年9月、米国の国際学生会議(おそらく渡航は同盟国による第二戦線の強行突破に関連)に参加した。彼女の訪問先にはホワイトハウスも含まれていた。パブリチェンコはホワイトハウスを訪れた初の旧ソ連国民となった。彼女は当時のフランクリン・ルーズベルト大統領とファーストレディのエレノア・ルーズベルトと面会した。パブリチェンコはエレノア・ルーズベルトの招待を受け、自身の戦地での経験について語るために米国を訪問した。

© 写真 : Public domain / Jack Delanoリュドミラ・パブリチェンコとエレノア・ルーズベルト
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リュドミラ・パブリチェンコとエレノア・ルーズベルト

シカゴでの会合で、パブリチェンコは有名なスピーチを行っている。「私は25歳です。前線で私は309人の敵兵と将校の狙撃に成功しました。紳士のみなさん、私の背後に隠れておられる時間、ちょっと長すぎるんじゃないですか?」

看護師と衛生兵

「兵役義務」法に基づき、1939年9月1日より、医学や獣医学の知識、また、特殊技能を持つ女性は、開戦次第、兵役に就くことが義務づけられた。

前線と後方では20万人超の医師と50万人の一般医療スタッフが従事していた。そしてその半分が女性で1000万人以上の負傷者の看護は彼女らの手に委ねられていた。医療大隊と最前線の野戦病院では、医師と看護師の勤務は数昼夜にわたることも多かった。医療スタッフらは夜も眠らずに手術を行い、また、死亡者や負傷した兵士を戦場から背負って連れてくる者もいた。

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看護師

衛生兵のマリア・シェルバチェンコの手記にはこんな記述がある。「前線の衛生兵の状況は時として戦場よりも厳しかった。兵士は塹壕で戦闘を行い、一方、衛生兵は砲弾が炸裂し、弾丸が飛び交う中、塹壕から塹壕へ走らなければならなかった。」

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衛生兵のマリア・シェルバチェンコ

1943年にシェルバチェンコはドニエプル川の戦いの際に10日間に渡り戦場から負傷者を運び、112人の負傷兵に応急措置を行った。その勇敢さと偉業に対し、彼女にはソビエト連邦の英雄の称号が与えられた。


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