このような発想が出てくる理由の一つには、ロシアがもともと中絶の多い国だということが挙げられる。2005年の1年間では、約150万件の中絶が行われた。その後、年を追うごとに減少し、2018年には約56万7000件(ロシア保健省発表)にまで減った。しかしこの数は、同年の年間の出生数の3分の1にも匹敵するため、ロシア政府は由々しき事態だとみなしている。
クズネツォワ氏に同調しているのがロシア正教会だ。もともと中絶を殺人だと主張してきたロシア正教会は、中絶を減らすためのあらゆる方策を支持すると表明した。今年1月、ロシア正教会のキリル総主教は「ロシアの人口減の問題は中絶の大幅な制限によって改善できる、2030年までに1000万人は増やせるはずだ」と呼びかけていた。
これに表立って反発しているのが、ロシア下院家族・女性・子ども問題委員会のオクサーナ・プーシキナ副委員長や、前消費者権利保護・福祉監督庁長官のゲンナージー・オニシェンコ氏だ。オニシェンコ氏は「中絶できる公立病院が減れば、非合法の中絶が増えるだけ。中絶が禁止だった時代、まさにそうだった。ヤブ医者が女性の健康を損ねて、二度と妊娠できないようになったらポテンシャルの損失だ」と話す。
いっぽう、日本では年間約16万件の中絶手術が行われている。状況比較のため、日本における中絶と費用の関係について、勤医協札幌病院・産婦人科の西岡利泰(にしおか・としやす)医長に話を聞いた。ほとんど知られていないが、日本でも、中期中絶(12週0日以降)であれば、実質的な自己負担なしで中絶手術を受けることができる。女性の中には、初期中絶の費用が捻出できずに、やむなく中期中絶を選ぶ人もいるという。
日本における中絶費用と件数との関係について、西岡氏は次のように話している。
西岡氏「基本的に費用を高くすることで望まない妊娠を減らすことはできないと思います。臨床での実感として、中絶のことまで考えて妊娠する人はいません。ほとんどの方が、妊娠するとは思わなかったか、妊娠するかもしれないと思ったが相手にそれを言えなかった、です。そして、男性側は、費用負担ができない場合は大抵連絡が取れなくなります。また、妊娠が発覚した当初は分娩を考える例が多いです。中絶費用が高くなり、貧困層では実質中絶が不可能となった場合は、おそらく統計上の中絶は減ると思われますが、違法な中絶や胎児遺棄、新生児の施設保護が増えるのではないかと危惧します。」
ロシアでも、日本でいうところの赤ちゃんポストのような、親が匿名で新生児を預けられる「ベイビー・ボックス」が様々な地域にあり、これまで約200人の命が救われている。ただし、国土の広さに加え、ボックスを設置していた施設が急に受け入れを中断してしまったりと、誰もがアクセスできるというわけではない。
この春は、図らずもコロナ禍の影響で中絶に対するアクセスが制限され、公立病院で手術を受けることができない女性が続出した。経済危機の中、彼女たちが費用を捻出して私立クリニックに駆け込んだのか、それとも出産の道を選んだのか。その全体像が見えてくれば、中絶制限というアプローチの成否が明らかになるだろう。