最初の公式美人コンテストが行われたのは100年以上前のベルギーである。出場を希望する女性は複数枚の写真と自分自身についての短い手紙を送ることが求められた。男性のみの審査員がその中から20人を選び、選ばれた女性たちが長いイブニングドレスで舞台を練り歩いた。優勝者にはフランスの雑誌『L'Illustration』の表紙を飾る機会と賞金が贈られた。
ミスの称号を上手に活かした最初の美女は、国際美人コンテスト「International Pageant of Pulchritude」で優勝したアメリカ人のキャサリン・モイランである。彼女はすぐに有名になり、ハリウッドに進出して1930年には2本の映画に出演した。
1954年のテレビの登場で美人コンテストの人気は一気に高まった。当時2700万人以上が美人コンテストの生放送を視聴した。これ以降、賞品は巨額なものになり、競争も激しくなった。ミス・ユニバースの優勝者には、ニューヨークでの居住費とニューヨーク・フィルム・アカデミーの学費が1年間支払われるほか、スポンサーから金銭や各種プレゼントが贈られる。ちなみに、日本人女性にもこの称号を与えられた人がいる。1959年の児島明子と2007年の森理世である。
しかし、人気では劣るものの、優勝するために珍しい基準を満たさなければならないコンテストもある。
「ミス・ドラム・スティック」
アメリカのアーカンソー州では毎年、感謝祭の日に「ミス・ドラム・スティック」コンテストが開催される。出場者は七面鳥(感謝祭のシンボル)を描いたポスターで体と顔を覆い、審査員は脚だけを見て美女を評価する。優勝者は人気のトークショーに出演することができ、トークショーではじめて顔を明かすのである。
「ミス殺人囚」
このコンテストはブラジルで開催されているもので、殺人を犯した女性の囚人だけが参加できる。審査員は外見のほか、出場者の教養、刑務所内での振る舞いも評価し、看守の意見も考慮に入れる。
同様の美人コンテストはアメリカ最大の女性刑務所でも毎年開催されている。評価基準には教養や服役中の振る舞いも含まれる。このコンテストは回を重ねるごとに人気が高まり、今ではテレビ放送もされている。
「ミス核爆弾」
1953年、ノースラスベガス商工会議所は毎年恒例のパレードと美人コンテストのテーマを「アトミック・シティ」に決めた。コンテストで優勝したポーラ・ハリスは商工会議所の車両に乗って街頭パレードを行ったが、「ミス核爆弾」で人気を博したのは別の女性だった。
1957年5月24日にラスベガスでドン・イングリッシュが撮影した「ミス核爆弾」の写真はアメリカにとって象徴的なものとなった。写真はアメリカのほぼすべての人気出版物に掲載され、数千回も再版された。ドン・イングリッシュが撮影した若くて笑顔のリー・A・マーリンの写真は、核実験に歓喜するアメリカの雰囲気をよく伝えていたのだろう。2012年、ミス核爆弾の写真はThe Killersが発表した『ミス・アトミック・ボム』という同名のシングルのカバーに使われ、再び日の目を見た。
ホロコーストの生存者
ミス地雷
カンボジアとアンゴラは、世界で最も多くの地雷が埋まっている国のひとつとされている。内戦以降、100万個もの地雷が地中に埋められたままなのだ。カンボジアだけでも、約4万4000人の市民が地雷の爆発の被害に遭い、手足を失った。ノルウェーのアーティストMorten Traavik氏が組織するこの美人コンテストは、こうした人々の問題に注目してもらうことを目的としている。
トランスジェンダーの美人コンテストも人気増
ブラジルでは自分自身を女性だと考え、女性のように見える男性のための美人コンテストが2013年から開催されている。優勝者に贈られる賞品は性転換手術だ。このコンテストは毎年、倫理とホモフォビア(同性愛嫌悪)に関する議論を呼び起こしているが、コンテストのスポンサーである国際人権擁護協会は、このコンテストの開催が国民の寛容性を高めると信じている。
タイでも同様のコンテスト「ミス・インターナショナル・クイーン」が2006年から開催されている。2018年には、ミス・スペインのアンヘラ・ポンセがトランスジェンダーとして初めてミス・ユニバースに出場した。