空中爆発
1954年9月14日、オレンブルク地方(シベリア)のトツキー演習場で原子爆弾の実験が行われ、その爆発直後、ガスマスクと装着した戦車や歩兵による軍事演習が実行された。この爆発で軍人約4万5000人と少なくとも1万人の地元住民が放射能を浴びたことから、現地では悪性腫瘍や血液疾患を発症する患者が急増した。
ポポワさんの若かりし頃の思い出
ポポワさんは、当時友人と一緒にその演習に参加していたという。ポポワさんたちは科学者で、与えられた課題は、空気の組成を測定することだった。爆発時、ポポワさんたちは塹壕に座っていたという。
ポポワさんは当時のことについて、「爆発実験があると言われただけでした。これは新しい発明であり、その中には原子があるのだと」と語っている。
© 写真 : Minatom核爆発
核爆発
© 写真 : Minatom
演習時、気温は30度に達したが、参加した人々は防寒着を身につけていた。爆発から3時間経ち、周囲が静まりかえった頃、ポポワさんは塹壕から離れた。その時ポポワさんが目にしたものは、バラバラになった動物の遺体だった。
「牛の肉、焼かれた羊、それらの肉から血が流れていたのを覚えています。私は目にした途端、ヒステリーを起こして号泣してしまいました」
爆発後のこと
ポポワさんは車の中に隠れていたが、医師として働いていた演習場の上官の妻に見つかり、現場に戻るように説得された。一方、ポポワさんの友人は爆発現場に残り、研究室でサンプルを用いた作業を行っていた。
その一週間後、ポポワさんたちは演習場から出ることができた。ポポワさんは、「駅では音楽が流れていました。私たちにはお金が支払われ、果物も出されました」と語っている。その後ポポワさんは潰瘍で病院に入院。骨も痛み、嘔吐の症状もでたという。
一方、ポポワさんの友人は、サマラ(ロシア西部)で入院した。ポポワさんは見舞いに行ったときのことについて、「(友人は)かすかに唇を動かしただけでした。全身が腫れていて、手足はひどく大きく、赤く腫れていました。友人の目は眼窩から飛び出たような感じで、口はゆがみ、全身の形が崩れていました」と振り返っている。友人はその後すぐに亡くなった。ポポワさんは結婚したが、長い間健康な赤ちゃんを産むことができなかったという。