モスクワ最安のバーニャは「リュブリンスカヤ・バーニャ」だ。バーニャの多くは時間制で、2時間でいくら、などと料金が決まっている。しかしリュブリンスカヤ・バーニャは、昼から22時の閉店まで時間制限なしで約750円。これはどこと比べても圧倒的に安い。このバーニャがある地区は「闇市場」「工場地帯」といったイメージがあるので、おそらく、日本人でわざわざこのバーニャに行った人はいないだろう。
実際に来てみると、殺風景ではあるが、危険な感じはしなかった。無愛想な受付の女性に入場料を払う。商売っ気は全くないが、聞けば色々教えてくれる。女性用バーニャのある2階は節電のためか、とても暗い。まずはロッカールームで着替える。鍵つきのロッカーとベンチが並び、化粧スペースや洗面台、トイレ、ドライヤーなど、身支度を整えるのに一通りのものは揃っている。新しくはないが、清潔だ。汚れるとその都度、おそらくキルギス人と思われるお姉さんが掃除してくれる。
ロッカールームを抜けると、大きな休憩室がある。だだっ広い空間に木のテーブルと椅子がたくさん置いてあり、身体に薄い布を巻きつけただけの格好で女性たちが寝そべって、おしゃべりしている。コンセントが自由に使えるので、マイポットを持参して紅茶を入れている人や、トマトやきゅうりを丸かじりしている人もいる。テーブルには、このバーニャとつながっているシベリア料理店のメニューが置いてある。どれも安い上に美味しそうだ。この日はすいていたので、筆者と友人も、テーブルを確保することができた。
いよいよバーニャに入る。洗い場は、思ったよりずっと広い。仕切りのついたシャワー、水風呂、桶に入った水をかぶるゾーンなど、たくさんのコーナーがある。基本的にバーニャは全裸で入るものだが、水着姿の人もちらほらいる。ちなみにビーチサンダルは履いたままだ。でないとサウナの床が熱すぎて、足を火傷してしまう。サウナに座るとき、お尻の下に敷く厚手のタオルも必ず持っていこう。
サウナは大と小のふたつあり、日本のサウナと見た目はあまり変わらない。まずは身体をシャワーで濡らす。さらに頭や髪を熱から守るため、フェルトでできたバーニャ用の特別な帽子をかぶる。サウナの中には石を積み重ねて作ったかまどが置いてある。中の温度は約70度。かまどにひしゃくで水をかけることで蒸気が発生し、湿度が上がって、体感温度がぐっと高くなる。
サウナが冷めていたので、水をかけようか迷っていたところ、後から入ってきた優しそうな50代くらいの女性がお手本を見せてくれることになった。その女性は持参した麻袋に薬草をつめ、上から熱湯をかけて、お茶のような薬草エキスを大量に作った。とても手馴れている。聞けば週1ペースで、夫婦で通っているのだそうだ。最近はバーニャ用の芳香油もたくさん売っているが、女性は「昔ながらの方法が好きなの」と言う。女性が、ビシャッと音がするほど力いっぱい薬草エキスをかまどにかけると、「これぞ大自然!」と言いたくなるような香りがふわっと広がる。その蒸気を鼻から吸い込むと、なんだか身体が喜んでいるようだ。
ロシアのバーニャといえば、「ヴェーニク」という、白樺などの枝葉を束ねて作ったハタキのようなものをイメージする人も多いだろう。多くのバーニャには、ヴェーニクを使ったプロのマッサージ師がいて、オプションで注文できる。ただ、ここにはそういう人はおらず、全てセルフサービスだ。さっきの女性が、私の頭の上で自分のヴェーニクを揺すってくれた。ヴェーニクにはたくさんの水滴がついていて、まるで細かい雨に打たれているようだ。白樺のすがすがしい香りと相まって、最高に気持ちが良い。
スタンダードなサウナ以外に、トルコ風サウナ「ハマム」もある。ハマムの中は蒸気がすごく、ドアを開けると真っ白でほとんど何も見えない。湿度は100パーセント。温度は50度と低めで、大理石のちょうどいい熱さが心地よく、敷物なしで長い間寝そべっていられる。ハマム中央の丸い台には、若いお姉さんがどーんと大胆に横たわっていた。タジキスタン人のようだ。この人も人懐っこくて、日本人とわかると色々と質問してきた。私たちは「明日も仕事だなんて信じられないね」と言いながら、究極のリラックスを楽しんだ。
サウナ外のフリースペースでは、パックをする人、ブラシで身体をこする人など、みんな何かしらの作業をしている。ロシアのスーパーではバーニャ用のスクラブや顔パックなど色々なコスメが並んでいるが、こういうときに使うのかと納得した。高さが調節できる鏡も置いてあり、なかなか気遣いが細かい。見るともなしに見ていると、2人組の女性が、ゴム手袋をはめて髪を染め出したので、びっくりした。日本ならマナー違反ですぐに追い出されそうだが、特に誰も気に留めていないようだ。期待を裏切らない自由さだ。
ひととおり楽しんだところで、いったん休憩室に戻って一息ついた。水を飲んでも特に何も感じないが、熱いお茶を飲むと、身体にしみわたるようで、とても美味しい。最初は熱いバーニャに熱いお茶?と思ったが、ロシア人の知人が「絶対に持っていけ」と言うので、水筒に入れて持ってきていたのだ。このお茶は本当に役に立った。バーニャと休憩室を何度か往復して、気付いたら4時間近くも過ごしていた。
閉店と同時にバーニャを後にした私たちはものすごくお腹が空いていたため、近くのウズベキスタン料理店でがっつり系メニューを完食した。バーニャはかなり体力を使うのだ。結論としては、設備は簡素だが思ったより充実していて、コスパの非常に良いスポットだった。サービス精神がゼロなのでロシアに来たばかりの人にはハードルが高そうだが、少し慣れて、地元の人たちと飾り気のない交流を楽しんでみたい人にはとてもおすすめだ。
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