短いけれど輝かしい人生

世界が恋に落ちたソ連のフィギュアスケート選手

アイスダンス界に革命を起こし、初のオリンピック金メダルを獲得し、世界のあらゆるアイスリンクで喝采を浴び、無敵の女王として引退した・・・。そんな伝説的なソ連のアイススケート選手、リュドミラ・パホモワに匹敵する選手は、その後10年、出てこなかった。



若い頃は、将来性はあまりないと思われていた。現在のロシアフィギュアスケート界の重鎮で、チームメイトだったタチヤナ・タラソワと同じだった。


「わたしたちはいつも一緒にどんどんレベルの低いグループに入れられて、ほとんど才能がないとされ、リンクでの練習時間も短縮されていました」
タチヤナ・タラソワ
パホモワはペアとシングルでトレーニングを行なっていた。選手としての短いキャリアももう終わろうとしていたとき、所属していたクラブCSKAのヴィクトル・ルィシキンコーチが、アイスダンスへの転向を勧めた。そしてこの一か八かの賭けがなんと大きな成功をもたらすこととなった。18歳のパホモワはソ連チャンピオンの座に輝いたのである。しかし、それ以上の成果を出すことはできず、国際大会では良い演技を見せることができず、まもなくペアは解散した。


1967年になり、パホモワは、ソ連チャンピオンの座にありながら、長い間、パートナーもコーチもいない状態が続いていた。先が見えない状況に彼女は精神的に追い込まれていた。そんなとき、彼女は同じアイスリンクでトレーニングをしていた当時名もないアレクサンドル・ゴルシコフに、新しいペアを組もうと声をかけた。
ソ連チャンピオンとペアを組むというのは、上位グループにいたゴルシコフにとっては願ってもないチャンスであり、すぐにこのオファーに同意した。2人につくことになったのはエレーナ・チャイコフスカヤコーチで、彼女は結局、2人が引退するまで指導を続けることとなった。
パホモワとゴルシコフがペアを組んだとき、ソ連はアイスダンスで他の国に大きく遅れをとっていた。しかし、2年後の1969年には、2人は世界選手権で銀メダルに輝き、1970年にはソ連のフィギュア選手として初めて、世界選手権、欧州選手権でチャンピオンの座についた。


パホモワとゴルシコフはアイスダンスのスタイルを変えた。それまではクラシック音楽を使用した堅いアカデミックなダンスが主流であったが、2人はそんなアイスダンスに、生き生きとした情感溢れる民族舞踊を取り入れたのである。

同じく1970年、パホモワとゴルシコフは結婚。しかしリュドミラはのちに、結婚しても2人の生活はほとんど変わらなかったと告白している。2人は日夜、アイスリンクでトレーニングを続ける生活を続け、家事はほとんどパホモワの母親任せだったという。

そして2人は次々と大きな成功を収めるようになる。チャイコフスカヤコーチの指導の下、有名になった2人は、1970年代に世界選手権、欧州選手権で合わせて12回の優勝を果たし、1976年のインスブルック冬季五輪で、ソ連史上初めて金メダルを獲得し、引退を華々しく飾った。

オリンピックで勝利した1年後、パホモワとゴルシコフは子どもを授かった。娘のユリヤが誕生したのである。

1970年、パホモワはルナチャルスキー記念国立演劇大学を卒業し、バレエの振付師になった。コーチとしてトレーニングをする計画であった。スポーツ選手として優れた功績を残した人物が誰でも良いコーチになれるわけではない。しかし、パホモワにはそれができた。1978年、パホモワはソ連代表チームのコーチとなった。もっとも好成績を残したのは、ナタリヤ・アンネンコ/ゲンリフ・スレテンスキー組(写真:左)で、欧州選手権で銀メダル(1988)、銅メダル(1986〜1989年)に輝いている。またイリーナ・モイセーエワ/アンドレイ・ミネンコフ組(写真:右)も人々の記憶に深く刻まれている。

パホモワには壮大な計画があったが、重い病を患い、39歳という若さでこの世を去った。病名は悪性リンパ腫。初期段階なら進行を抑えることができたが、パホモワはそんな医師の説得に耳を貸すことなく、トレーニングを続けた。

そして1986年5月17日、女王はついに帰らぬ人となった。スポーツクラブCSKAで執り行われた葬儀には大勢の人々が参列し、その長い長い行列は地下鉄の「空港」駅まで続いたといまも語り継がれている。


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